中央アルプス

風越山

2008年10月20-21日、wakwak山歩会は風越山(かざこしやま1,535m) に登った。飯田市民に親しまれた郷土の山である。中腹にベニマンサク自生地があり、「秋になると登山道一面にベニマンサクの鮮やかな紅色の丸い葉が敷き詰 められ、まるで日の光が赤くなってしまったかのような錯覚を覚える」と案内書にある。

WakWak山歩会の9月の定例登山は風越山の南にある恵那山を計画していたが、メンバーの大半が 体調不良で流れた。一時はその埋め合わせに木曽御嶽山も同時登山しようという計画もあったが、山頂小屋が閉鎖されているし、冬も迫っているからと御岳山は 流れて風越山だけが残ったのである。とはいえ日帰り登山としては標高差が950mで侮ってはいけないと自戒しながらの登山であった。

飯田市で生まれたコンちゃんがここを推奨した。中央アルプスが高みを落としたところに木曽谷と伊那谷を結ぶ 街道、大平街道がある。この街道は風越山の裾をめぐっている。

参覲交代の諸大名、公用を帯びた御番衆方が中山道を通行するとき「天龍川のほとりに住む百姓三十一 か村、後には六十五か村のものは、彼らの鍬を捨て、彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたる風越山の山道を越して、労役に参加した」と島崎藤村の 小説「夜明け前」の第六章にあるあの風越山である。皇女和宮の御降嫁の折は、公家、武士、助郷、雇い人足、馬子総勢8万人が木曽街道を行進したのでことさ らの苦難の時であったと佐久の八幡宿の本陣小松家の古文書にもあ る。

 

第1日目

10:00開成駅に集合し、マーさんの車で出発。飯田市をコンちゃんの案内で散策した。飯田 市は飯田藩の城下町である。その中心となった飯田城(長姫城)跡は天竜川に流れ込む支流松川と野底川によって侵食されてできたフィンガー状の段丘の突端部 にあり、その城の立地はサン・ジミニャーノを思わせた。城址の中に風越山 から真っ直ぐに引いたという水路が残っている。

城址内部の水路

段丘の突端にある本丸の跡はご多分にもれず長姫神社になり、二の丸跡は美術博物館が鎮座している。かっての空堀を渡った本丸跡に民俗学者、柳田國男の世田 谷区成城にあった自宅兼、民俗学研究所が移設されて保存されている。窓の少ない洋館である。柳田は兵庫県出身だが養父が飯田藩士で大審判判事であった直平 の縁である。

柳田國男の自宅兼民俗学研究所

飯田城は室町時代に坂西(ばんざい)氏が築城したという。その後、武田、織田、徳川の支配に服し、豊臣に封 じられた毛利・京極氏が城と城下町の大改修をして飯田の基礎をつくったという。関ヶ原の後は小笠原氏が入ったが、松本に去った後は脇坂・堀氏の居城とな り、明治に廃城となった。

JTがスポンサーとなってここで毎年プロオーケストラの若手演奏家の研鑚を目的に、アンサンブルとオーケストラの演習と演奏会を行う「アフィニス夏の音楽 祭」が開催された理由が分かった。飯田市見学の後、登山口を下調べして、大平街道筋の本日の宿、「のんび荘」に投宿。(Hotel Serial No.441)

もともと太平街道沿いの松川ダムの発電所の放流水を溜めて農業用水にする目的で作ったプールで遊ぶ人達のためにつくった茶屋だという。それでも農業用水に するには温度が低すぎるというので現在ではプールとしては使われてはいない。茶屋も商売が上がったりで、これを譲り受けた夫婦が料理民宿を経営している。 昭和初期のハイカラな建物がそのまま残り心地よい。亭主の作った新そばに舌鼓をうつ。

のんび荘のある松川

のんび荘のあるプール

 

第2日目

6:00起床、6:30朝食、7:00出発で押洞登山口に向かう。飯田城への水源であったであろう小川が流れている。狢坂、石灯籠、秋葉大権現を淡々と林 間コースを登る。小学校高学年の生徒達が先生に引率されて学校登山をしている。登山道は幅広く、マラソン登山が行われるということもうな づける。登りは虚空蔵山を巻く。延命水は細い。矢立木から更に登るとそこに展望台があり、ベニマンサクが咲 き誇っていた。花と実と紅葉が同時に見られる木はそう多くはない。

ベニマンサク

展望台からは山頂と手前の白山神社があると思われるドーム状のピークが見通せる。ドームだけは神域として木 材の伐採がなされなかったためか針葉樹林に覆われ、他の山域は雑木林で紅葉していた。展望台の東方には南アルプスがよく見えた。北から仙丈ヶ岳、北岳、間 ノ岳、農鳥岳、塩見岳、荒川岳、そして赤石岳以南は雲の中だ。

眼下には飯田の町が見下ろせる。フィンガー状の段丘が風越山から真っ直ぐに天竜川に向かって 伸び、街路も段丘の長手方向に真っ直ぐつけられている。城址のある突端は森のために黒く縁取られている。天竜川に沿って敷かれている飯田線は飯田市のある 段丘に登るために直角に曲がり、野底川にそって坂を上り、段丘上はこれを横切るように直角に曲がり、段丘を横断したあとは松川に下ってそのまま松川に平行 になるように再度直角に曲がって天竜川まで下るので丁度コの字型になっている。地元の新そばが出回るのは来月なので今は北海道産のそばを使っているとい う。石臼で引き立ての粉を使っての手打ち新そばは美味であった。

展望台から南アルプスを望む

展望台を過ぎ、登山道が次第にゆるやかになるとそこに白山神社の鳥居がある。飯田の殿様がここまで馬で登ったという話はうなずける。しかし、白山神社は ドームにつけられた急な石段を登らねばならない。しかもこの石段は巨岩に直接鑿を当てて掘り込んだものである。白山神社は 重要文化財指定の立派な建物であった。ここで記念撮影。

白山神社にて マーさん撮影

山頂に行くには白山神社裏手の急坂を下って、上りなおさねばならない。このところ歩くこともサボって筋肉を鍛えていなかったため左足の膝の腱が痛くなって きた。このため急坂の下りに時間を食う。登り直しも巨木の根をつかんで登ることになり、難所であった。

山頂では小学生のグループとともに昼食をとる。下山に備え、両膝をサポーターで保護したが大して役に立たず、下山は足の痛さを、歩き方とストックにより軽 減することに尽きた。おかげで帰宅して全身の筋肉痛を感じている。

風越山全貌

帰路、マーさんとコンちゃんは虚空蔵山経由で下ったが、足に問題があるので巻道経由で下った。

下山時、難所で別の小学校登山の大舞台と遭遇。また白山神社におまいりにきた孫をつれた齢70才を越えるご婦人に会った。毎年1回の登山をしているとい う。神奈川からやってきたというと、「どうして風越山を知っているのか」という。メンバーの一人が飯田生まれのためと説明。「それはそれはようこそ。ぜひ 来年も」と挨拶される。

消費した飲料水は1.5リッターであった。下山後、砂払温泉で汗を流す。

今回、米国ツーリングのために購入したGPSに10m間隔の等高線の入った日本地形図TOPO 10m(2Gb)チップを装填して登山記録を作った。石灯籠で初めて積算距離をリセットして記録を開始。山頂で積算距離3km、移動時間1時間28分、停 止時間2時間32分の合計4時間、全体平均速度0.8kmであった。山頂でリセットせず登山口までもどったときの積算距離は8km、移動時間3時間24 分、停止時間3時間23分の合計6時間46分、移動平均速度2.4km、全体平均速度1.2kmであった。森林の厚いところでは10m位の誤差がでて登り と下りの軌跡は完全には一致しない。しかしジグザグの道は詳細に記録され、国土地理院の山道のルートは大体の目安であることが分かる。

Viewranger地図上では片道総距離4.17km、片道累積登り987m、片道累積下り88m。

帰宅すると会社の1年後輩のまえじま氏がわれわれが風越山登山のため飯田市に向かっていた20日早朝早稲田の学友と鬼怒川温泉に1泊旅行に出かけて亡く なったという知らせをうけ呆然とした。というのも10月12日に下記のようなメールをもらっていたからである。

「グリーンウッドさん

米国の鉄馬走行記、拝見しました。

『あれから8年間が過ぎ、古希を迎えた。そろそろラストチャンスだろうと・・・・』との書き出し部分に感動しました。

私事ですが大動脈瘤の件があって、私もこれがラストチャンスかも、といつも思いながら山に行ってますから。

8月末に、中央アルプス・宝剣岳に登りましたが、岩場に恐怖感をおぼえました。初めてのことです。先週、北八ヶ岳の西天狗〜東天狗を循環しおましたが、標 準時間で歩くのにいっぱい一杯でした。

加齢って嫌ですね」

彼の「山旅の想い出」http://members.jcom.home.ne.jp/tetsuom/は18 日が最新改定日になっている。直前まで元気だったわけで、10月10日の奥さんと一緒の「唐沢鉱泉より天狗岳周回」の記録と8月の「中央アルプス・宝剣岳 の記録を読んで体の変調があったことを知った。

息子さんは「早朝宿の露天風呂で心配停止状態で発見され、午前7時過ぎに心臓は再び動き始めたものの、時間とともに脈拍・血圧が下がり、医師の懸命な治療 も空しく午後8時17分、そのまま帰らぬ人となった。死因は心源性ショック死」と報告している。

22日の通夜に清瀬まででかけたが、10月10日に八ヶ岳に一緒した山仲間の奥さんの悲嘆にくれた姿をみて悲しみを新たにした。69才でまだ若かったため と、設計ソフト開発の中心となった人であったため、会社の仲間が大勢来ていた。やることをやり遂げた幸せな人生だったとおもう。

October 23, 2008

Rev. November 25, 2017


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