ハウステンボス
1999年2月グリーンウッド氏は2泊3日の予定でハウステンボス (Theme Park Serial No.132)で滞在型の休暇をとった。
神近氏が長崎 県大村湾西岸ににオランダ村を開いて思わぬ好評を得た。ここを拡張するかわりに、大村湾北端に長崎県が造成したが売れなかった工業用地をレジャーランドに 転換することになった。1992年頃、ちょうど バブルが破裂する直前に6,000億円を投じて完成したものである。バブルの勢いにのって興銀が神近氏の構想に大金をつぎ込んだわけだが、設計といい金の かけ方といい一流の施設である。しかしバブルがはじけて不景気になり、経営難に陥っていたことは知っていた。
ドムトールン
グリーンウッド氏は同じ金を使うならオランダに行くほうが良いと考えていたのだが、マイレージが溜まり、遠くに出かけるのも面倒になったので出かけ たものらしい。しかし、勝手に想像していたものよりグレードが高く、行ってみて良かったと考え直したようである。
風車と運河
おきまりの風車などは実物より貧相だなどと始めは思っていたようだが、園内のホテル、ホテルヨーロッパ、アムステルダムホテル、ホテルデンハーグな ど外見はオランダの町並みを模しながら中は統一的なホテルとなっていることを見るにおよびオヤッと思い始め、運河の水中の護岸や海岸の石積み護岸方法、潮 位変化に水門開閉操作を同期させて運河の海水を循環させる方法、ビル街の地下に潜む共同溝などを垣間見るにおよび都市作りが同氏の日頃の主張と同じのため 完全なファンに変わっていった。
運河の水辺
水門
氏は特にホテルヨー ロッパ(Cafe Serial No.131)がお気に召したようである。中庭に当たるところが運河に連なっており、長崎空港から直接、船でホ テル桟橋に横付けで、金モールで着飾ったボーイのお出迎えでチェックインできる。
ホテルヨーロッパ
8年も経つと木々も成長し、オランダから輸入したレンガも風雨に晒されて風格が出てきて、本物の味が感ぜられるようになったのも幸いしていただろ う。
マリーングッズのお店でレプリカながら本物そっくりに復元されたスクリムショーを 発見し、早速買い求めていた。イタリー製とのことだが、色、艶、重さ、手触り、ひび割れなど本物の抹香鯨の牙そっくりに作られた牙に手彫りで女性と、帆船 の絵が彫られている。捕鯨船船乗りの水夫が暇を見て鯨や海獣の歯や牙に彫り物をしたものをスクリムショーという。本物など博物館でしかお目にかかれない が、フェイクなら気軽に楽しむことができる。
観光丸の出帆
ここには幕末に初めて日本の船として太平洋を渡った帆船、かん臨丸、やオランダ王国ウィレムIII世から送られた蒸気外輪帆船、観光丸、ウイリア ム・アダムスや八重洲の地名の由来となったヤンヨ−ステンがマゼラン海峡経由太平洋を渡って1,600年に初めて太平洋を渡って日本にきたカラベル船、デ・リーフデ号 (280トン)もここに係留されている。
デ・リーフデ号
このリーフデ号は建造時はエラスムス号といい、船尾にあったエラスムス像は栃木県佐野市の龍江院で発見された。
さて我々の訪問のあと、結局、神近氏が辞任し、その後も何度も会社更生法を申請。2010年に100%減資し、HISの澤田秀雄氏が経営主体となってすぐ黒字 転換した。
ハウステンボスのある大村湾の北端は、一時期、海軍兵学校があったこともあり、戦後は、厚生省佐世保引揚援護局が置かれ ていたところだと総合知 学会の与志那劫記氏(東京佐世保会副会長)から聞いた。 山をこえれば佐世保軍港がある佐世保湾だ。長崎湾より広く、奥深く、かつ水深は深い。湾口は西に向かって開いており、その先に五島列島が防波堤のように横 たわっている。佐世保に軍港を作った明治人の優れた戦略のセンスを感じる。明治政府が佐賀県の伊万里湾を選ばず、ここを軍港と決め、ロシアのバルチッ ク艦隊を対馬沖で葬った基地となったところだ。米国はここの価値を知っており、この軍港はいまはアジアに目を光らせる米軍七艦隊の基地になっている。
Wikiによれば佐
世保の米軍基地には強襲揚陸艦:LHD-6 ボノム・リシャール、ドック型揚陸艦:LSD-20 グリーン・ベイ・LSD-42
ジャーマンタウン・LSD-46 トーテュガ、アヴェンジャー級掃海艦:MCM-7
パトリオット、MCM-9 パイオニア、MCM-10ウォーリア、MCM-14 チーフなどがはいぞくされているという。したの地図をみれば強襲揚陸艦:
LHD−6ボノム・リシャールは一番奥でメンテナンスしている巨大な艦船がそれと認定できる。ドック型揚陸艦:LSD42−ジャーマンタウンはLHD−6
ボノム・リシャールの南側に縦に係留されている。ドック型揚陸艦:LSD−20グリーン・ベイやドック型揚陸艦:LSD−46トーテユガは見当たらない。
突堤にはフェーズドアレイレーダーを載せた、イージス艦らしきものがすくなくとも2隻見える。その他にもたくさんあるが掃海艇などであろうか。かっての海
軍の造船所は民営化されて佐世保重工となっている。佐世保基地の「第7艦隊の補給・兵站基地」としての弾薬庫・貯油庫に驚くべきメニューとなっていて、こ
れでは、「USAは絶対に佐世保基地を手放さない」ことが分かるという。
第7艦隊の原潜と空母は横須賀を基地としている。首都圏に近い横須賀に艦用原子炉がたくさんあるのは鎌倉の住民にとっては好ましくないのだが、米国としては中国に攻撃されるところには置きたくないのだろう。米 国の原子力空母のノーフォーク基地は市街地に近いが、ノーフォークは海軍関係者が主体だろうし、市街地は東京のように巨大ではない。英国の原潜基地のファスレーン 湾はスコットランドのグラスゴーの近くだがグラスゴーは小さな町だ。クリミア半島のセバストポリ軍港は貧弱なものだし、原潜基地ではない。
思い起こせば、わが伯父は 日華事変では1937/11佐世保を母港とする空母龍驤の飛行隊長となり、渡洋爆撃をした大村飛行隊の訓練に従事していた。大村飛行隊の基地は今も大村市 今津町にあり、海上自衛隊大村航空隊及び第22航空群が使用している。現在の長崎空港は1975/5/1大村市の沖合2kmの大村湾に浮かんでいた「簑 島」(みしま)全域を削って開発した「世界初の海上空港」だ。
沖縄とは異なり、佐世保の米軍と周辺の住民との関係が良 好なのは基地周辺で生まれた私生児はすべて米国が引き取って養子縁組しているためという。沖縄も同じ扱いのはずだが、沖縄の心は歓迎ではない。その心は徳 川時代から「ヤマトンチュ」の沖縄に対する「島津の保護領としての支配と搾取」のひどさがあったためのようだ。「米国占領の終わり」に際して「琉球独立」 内心望んでいたが実現せず「日本への本土復帰」となった挫折もあるだろう。1999年2月27日
Rev. 2016/1/12