メモ

シリアル番号 表題 日付

854

ナッソウ家

2004/09/19

オラニエ家は、南仏のオランジュ市に由来する家系である。16世紀に所領がヘッセン=ナッソウ州の州都ヴィースバーデンにあったナッソウ家によって引き継がれたため、オラニエ・ナッソウ家とも呼ばれる。

同家のオレンジ(オラニエ)公ウィリアム、すなわちウィレム1世(1533〜1584)を盟主 として、スペインからの独立運動が展開される。1559年に、彼とともに独立運動を起こした人物が、有名なエグモント公である。ゲーテの同題の戯曲に描かれ、ベートーヴェンが『エグモント』序曲を捧げた人物である。ウィレム1世 は逮捕され、死刑に処せられている。しかしウイリアムの活躍もあって、ユトレヒト同盟を北部の7州の間で締結する。これが力となって、1581年、スペリン領ネーデルラントからの独立を果たした。ネーデルラント連邦共和国の成立である。(なお、オランダは、この7州のひとつであるホラント州の俗称である。日本では、こちらの名前が定着している。)ウィレム1世の死後、オラニエ=ナッソウ家の血は、オランダの世襲制総督そしてオランダ王家に受け継がれていく。

ウィリアム三世(1650-1702)はオランダのデンハーグ生まれ。 父はオラニエ・ナッソウ家のウィレム二世。母はチャールズ一世の長女であるメアリー・スチュアート王女。1651年クロムウェルの共和制下の英国で航海法が成立し、オランダによる中継貿易を排除しようとしたことから英蘭戦争が勃発。

27才のとき、ウィリアム三世は亡き母と同名のいとこ・英国王女のメアリーと結婚する。 だが、彼女がジェイムズ二世王の娘であったために、名誉革命の際に英国君主に迎えられ、夫婦で共同王位につくという、過去に例のないことになった。 現王室の「君臨すれども統治せず」の約束はこの時になされた。最初は妻メアリーのみを英国女王として迎えたいという英国からの意向であったが、「夫が王冠を受けるのでない限りは、わたくしも王冠を受けません」と、メアリー王女が主張した。

ふたりは、オランダではヘット・ロー宮殿に住んでいたが、英国に渡ってからは主にハンプトンコート宮殿で過ごした。ハンプトンコートには、今でも国王夫妻の豪奢な寝室や執務室・肖像画などが残されている。ウィリアム三世子のないままハンプトン・コート宮殿で亡くなった。現在、彼は妻とともにウェストミンスター寺院に眠っている。


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