メモ

シリアル番号 表題 日付

838

田無

2004/08/03

祖父の長野中学の同期生が田無に住んでいて盆暮れの付き合いがあった。子供心に田無とは妙な名前だと思った記憶があるがこの疑問が60年ぶりに氷解した。

武蔵境にある亜細亜大学の研究会に出席したとき、武蔵境も、そのすぐ北側にある田無も関東ローム層からなる台地にあり、灌漑用水を多摩川から引けず、地下水も数十メートルもあり、水田が作れなかったので田無というのだそうだ。武蔵境から二駅東の井の頭にいたって初めて地下水が地表に顔を出すのだという。石神井、大泉という地名も関東ローム層が切れ、地下水が湧き出す泉に名前の由来があるという。

そういえばラジオで聞いた柳沢吉保の領地だった三富新田も灌漑不能で畑作だけだったと思い出し、地図で確かめると田無の北北西には清瀬市、所沢市と続き、田無から10kmの所沢市に三富新田はあった。多摩川はこの台地を避けて南下している。この地形が武蔵野の雑木林、茶の木の畝の垣根、芋畑という農耕方式を生み出したことがわかる。狭山茶もこの地形が生み出した産物だ。

江戸時代初期に多摩川の水を取水し、この武蔵野台地を突っ切って四谷まで43kmの玉川上水を引いたが、江戸城への給水目的であったため、台地の灌漑までは無理だったようである。武蔵野台地はなだらかに東に向かって傾斜している。玉川上水の取水口の標高は130m、四谷の標高は30mであるから、100mの落差を使っていることになる。

鎌倉時代にさかのぼれば畠山氏が秩父から起こったが、そもそも畠は国字で白田すなわち米などの価値あるものが取れない田という意味。二宮尊徳が下野(しもつけ)の丘陵地帯の開墾を指導したように、関東平野の西と北の端はいずれも丘陵地帯であったわけである。


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