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シリアル番号 表題 日付

789

鎌倉キリシタンの殉教

2004/01/26

現在でも鎌倉は長崎の次ぎに人口当たりのカトリック系の教会、修道院、病院の多いところだが、江戸時代の徳川家光の治世、現在の鎌倉極楽寺1丁目の海岸で5人のキリシタンは捕縛され、後に殉教する。

その5人とは幕府直轄地であった鎌倉の大船から北鎌倉界隈の小袋谷村にあったキリシタン伝動所の責任者フランシスコ会第三会の幹事役ヒラリオ孫左衛門夫 妻、フランシスコ会ふらいフランシスコ・ガルベス神父、看坊ジョアン長左衛門、ペトロ喜三郎であった。この記録は聖フランシスコ会フィリッピン聖グレゴリ オ管区ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父が報告している。

捕らわれた5人は江戸の小伝馬町の牢に入れられ、他のキリシタン51人と共に品川あたりで処刑された。この殉教者のうち37名の名前もわかっている。

この殉教者の列副のための調査をイエズス会の日本司教代理であったクリストヴァン・フェレイラ神父が調査に着手するが、鎖国に伴う布教活動の停止により中断。フェレイラ神父自身、逆さ吊りの拷問のため転んでしまい、イエズス会より除名。遠藤周作の「沈黙」の主人公になった。

フランシスコ・ガルベス神父だけは記録がしっかりしていたため、日本205福者の列につらなった。ヒラリオ孫左衛門夫妻のような殉教者は4,000- 5,000人にのぼるとみられるが、資料不足で列福調査もできていない。鎌倉雪の下教会にはヒラリオ孫左衛門夫妻の顕彰のための記念碑がある。


徳川家光がフランシスコ会を弾圧したのはオランダ船リーフデ号の パイロットのウイリアム・アダムス(三浦安針)がスペイン人修道会を中傷したために駿河に引退した家康がキリシタン禁令を発したためである。この禁令が出 たとき、日本にきていた宣教師はポルトガルのイエズス会122名、スペインのフランシスコ会14名、フランスのドミニコ会9名、アウグスチノ会4名、在俗 司祭7名で日本の総人口2,000-3,000万人中カトリック信者は70-75万人であった。現在の日本のカトリック信者は45万人、プロテスタントを 含め60万人である。

かけこみ寺として知られる東慶寺に残されている聖餅箱(せいべいばこ)が小袋谷村にあったキリシタン伝動所とどういう関係があるのか調味のあるところである。また同じ小袋谷村にある時宗の寺、光照寺の 山門にある大友十字といわれるの家紋が、小袋谷村にいた信者のうち転んだ者の子孫がキリシタン類族として旦那寺の光照寺の監視下にあったこととどう関連が あるのか興味がもたれている。寺社奉行所記録や評定所記録が関東大震災の時、東大図書館で焼失したために永久に記録は失われた。

殉教画家、村田佳代子


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