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718

イースター島問題

2003/07/09

西暦400年にポリネシア人移住、西暦1,600年に人口7,000人に増え、モアイ像などの巨石文化を築く、西暦1,722年にヨーロッパ人が到 達したころには人口も激減して壊滅状態であった。原因はヤシの木の伐採速度が新たに生えるより早かったためヤシの林が草原となり、それも荒れて食料も枯渇 し人口を養えなくなったためといわれている。最後は食人まであったという。

学士会報2003-IV No.841 国立環境研究所理事長 合志陽一

上記「イースター島の崩壊」の真の原因はニュージーランド・マッシー大学大学のジョン・フレンリーらによって1980年代半ばに解明されたと西野氏 から教わる。

米 ワイオミング大の研究者グループは花粉分析などの研究もしている。最初にイースター島に到着した人々は、伝説によれば王様のホツ・モツアに率いられた50 人ほどだったという。50人ほどの移住者が、移住して1000年ほどの1550年ごろには7000人から1万人にも増えた。このちっぽけな島で人口の大爆 発が起きたのだ。移住が始まったころイースター島は高木を含む濃い植生に覆われていたことが、合同調査の花粉分析で明らかになっている。しかし、氏族間で の石像(モアイ)建立の競争の激化で、重い石像を数多く島各地の祭祀場に運ぶ必要から膨大な木材が切り出された。さらに、人口が増えるのに伴い、開墾、燃 料、小屋や カヌーを作るために、木は切られていった。森林破壊は島全体に及んで、1,600年までに島はほぼすべての森林を失った。石像の多くが石切り場に放置され たまま、運べなくなった。木製のカヌーはつくれなくなり、樹皮が漁網の材料として使われたカジノキの木も姿を消して、漁ができなくなった。木材不足のため に木造家屋の建築が困難となり、多くの島民は洞穴での暮しを余儀なくされていた。植生の破壊は、もともと作物に養分を供給する家畜フンがないことでやせて いた島の土壌に、さらに深刻な打撃を与えた。裸地の増加によって土壌流失が進み、作物の収量は低下した。乏しくなる一方の資源と農業生産で人口を支えきれ なくなり、急減していった。1600年ごろを境にイースター島社会は衰退期に入り、未開状態に逆戻りしていった。木がなくなってカヌーも作れない中で、遠 く隔絶した島に閉じ込められた。枯渇していく一方の資源をめぐって争いは日ましに激しくなり、伝承からも、ほとんど恒常的な戦乱状態となったことがうかが われる。枯渇する資源をめぐる争いであり、食用のための人肉を手に入れるための戦いだった。米ワイオミング大の研究者グループは、発掘された頭蓋骨に肉を はぎとって食べた痕跡を発見した。つまり、蛋白源が少なくなるにおよんで喰人が始まったことを意味する。発掘調査でも食べた跡のある膨大な人骨が見つかっ ている。オランダ人提督ロッヘフェーンが1722年の復活祭(イースター)の日に、ついたのでイースター島となづけられた。島には、巨大な石像や精巧な石 組みの祭壇があったが、同時にみすぼらしい草ぶきの小屋や洞穴で原始的な生活を送り、絶え間のない戦闘に明け暮れている約3,000人ほどの島民がいるだ けだった。

東京大学大学院環境学者石弘之(いしひろゆき)教授

「氏族間での石像建立の競争」が原因とか。どこかの国の高速道路建設競争のようでもある。


ジャレッド・ダイアモンド著「文明崩壊」 でもこの問題が論じられている。 ジャレッド・ダイアモンドは住民は知らず知らずに環境を破壊してカタストロフィーに至ったとしたが反論もあるようだ。考古学者のテリー・ハントは島民たち は自然を注意深く管理していたとする。森林を破壊したのはネズミだという。くわしく調べるとポリネシア人が自然破壊をしたのではなく、ポリネシア人と共に 渡ってきた太平洋ネズミの激増ゆえに当時あったヤシの実が食べられ、木がなくなった。しかし、それでもポリネシア人らは畑などを作りながら安定した生活を 送っていた。そこへ1,700年代後半に、ヨーロッパ人らがやってきて持ち込まれた病気や奴隷化により島自体が崩壊していったという。ハントさんらは地層 調査をして年代はもちろん、その地層に含まれている植物の種や花粉、動物の化石などを調べて以上のような結論に達したとのこと。オランダ人が上陸した 1722年にはモアイはまだ建っていたという。その後 1960年に津波ですべて倒壊した。テリー・ハントはモアイは立ったままでゆすりながら歩かせたとしている。

Rev. July 1, 2012

2015年に見たTV番組では現在大英博物館にあるモアイの背中に彫られている謎めいた岩面彫刻(ペトログリフ)は鳥人とされている。この島 ではかつて鳥人を選ぶ祭りが行われた。現在は行われていない。集団の若者が冬季にグンカン鳥の繁殖の場となっているオロンゴの絶壁の下の小島の鳥の卵を もっ ともはやく摂ってきた集団のリーダーが鳥人となり、1年間島を統治するという風習があった。この風習のまえには各集団が数年に1体のモアイを作って海岸に 並べた。 モアイは先祖を象徴し、先祖に守ってもらう祈りの気持ちがあったのだが津波が襲ってきて、すべて打倒されたのを見てその信仰は崩れ、モアイは打ち捨てられ た、最 後にすがったのが鳥人信仰であったのだろうとする。ハワイのオアフ島において見られる浮彫はその形式、表現はイースター島と同様なものであり、ソロモン諸 島を中心にしたメラネシア全域では鳥が崇拝されていた。

狩猟と採集を主な生活手段にしてい南米の先住民族の一部族である「ヤノマミ族」の習慣も独特である。

Rev. December 20, 2015

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