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433

アメリカ杯の起源とその精神

2000/6/4

1851年に開催される第一回万国博覧会の記念行事の一つとして、80フィートから100フィートまでのスクーナー(2本マストの小型帆船)のためのレースをワイト島で開催する予定でいる。それに是非ともニューヨークのヨットを招待したい。一通の書簡がニューヨーク、マンハッタン島にある、創設間もないニューヨーク・ヨットクラブに届く。

18世紀の半ばといえば、産業革命以来の発展をとげ、名実ともに世界一の先進国としての栄華を謳い上げ、大英帝国の威容を世界に誇示した時代である。一方、当時のアメリカは、いまだ建国の途上にあり、独立・自主の精神のもと、開拓者魂が盛んに燃え盛る時代である。書簡の発信元はロンドンにあるロイヤル・ヨット・スクォードロンであった。"ロイヤル"の称を冠するためには英国王室の承認が必要となる。故に、その響きには計り知れない重みがある。

二ユーヨーク・ヨットクラブのメンバーたちはこの招待を「挑戦」と受けとめ、果敢に受けて立つことにするのである。メンバーの心を占めたものは、アメリカの独立・自主の精神が開拓した造船技術の高さを「先進国」イギリスに示したい、という対抗意識である。クラブの会長、ジョン・C・スティーブンス以下5人のメンバーは即座にシンジケート(挑戦組織)を結成し、艇の建造にとりかかる。「アメリカのスクーナを代表するヨット」を建造するにあたって、彼らが任命したのは弱冠31歳の新進ヨットデザイナー、ジョージ・スティアーズであった。新興国アメリカらしさが感じられる決断である。そして、艇には"アメリカ"という名前が与えられた。ロイヤル・ヨット・スクォードロンが企画したレースは、英仏海峡に臨む周囲約83Kmのワイト島を右回りに一周してスピードを競うレースである。参戦したただ一隻の挑戦艇「アメリカ」を迎え撃つのは15隻のイギリス艇である。1851年8月22日、レースの火蓋が切って落とされた。

"アメリカ"はアメリカの「挑戦の志」を帆一杯にはらみ快走した。15隻のイギリス艇の包囲網をくぐり抜け、圧倒的な差をつけて勝利をおさめたのである。勝者、ニューヨーク・ヨットクラブに与えられたトロフィーは、ヴィクトリア女王がロバート・セバスチャン・ギャラードにつくらせたギリシャの水差しを模したものであり、金額は当時の通貨で100ギニーであったと伝えられている。カップを持ち帰ったスティーブンスたちは、この快挙を後世に伝えようと考える。そこで浮かんだアイデアは、獲得したカップをニューヨーク・ヨットクラブに寄贈し、これを懸けた国際的なヨットレースを開催することであった。
カップ寄贈にあたって、彼らはこのレースの在り方について記した文書を添えた。これが、いわばアメリカ杯の憲法とも言われる「贈与証書」(Deed of gift)である。「アメリカ杯を保有するヨットクラブは、外国のいかなる挑戦にも応じなければならない」という基本理念が表明されている。「100ギニーのカップ」が「アメリカ杯」と称されるようになるのはこの時からである。「アメリカ杯」をめぐる挑戦者たちの歴史はこうして開始されたのである。

そして、140余年の歴史の中でカップは二度アメリカを離れる。一度はオーストラリア西海岸へ、そして、それを奪還し、再び離れた。現在、それを保持しているのは、ニュージーランド、オークランド市にあるロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スクォードロンである。彼らが挑戦を受けると指定した期日は、西暦2000年である。「アメリカ杯」は、世界の海洋国家が自らの文化と歴史を背負い挑み続けてきた「夢」で満たされている。


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