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縄文人はどこから来たか
2015/12/12

長浜浩明著「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった」という展転社の本を読めと総合知学会の森田氏から勧められた。私は未読だが、 目 次には司馬遼太郎や山本七平の日本人は半島から南下して日本列島にやってきたという説はDNAから見て逆だ。特に女性が朝鮮半島からやってきたエビデンス は無いと主張している。考古学的にも朝鮮南部の前方後円墳なども日本発だ。ミトコンドリアDNA分析から日本女性の95%から72%は日本の縄文系だったとす る。日本人男性の90%は縄文系。長浜浩明は日本語と朝鮮語は別系統という。しかしこれも変だ。日本語と朝鮮語は同じ膠着語に属するはず。かなり極端な説である。日本語、朝鮮語、満州語、モンゴル語、トルコ語、フィンランド語、ハンガリー語、タミル語を含むドラヴィダ語は皆膠着語なのだ。 一時期、江上波夫氏が北アジアの騎馬民族が日本を征服して「騎馬民族国家」をたてたという説のアンチテーゼなのだが、すでに佐原真氏が「騎馬民族は来なかった」という本を1993年に書いている。

この本を読んだ人のブログ「詩・歌 その言語游間」には

縄文人は稲作もしていた考古学上のエビデンスがある。縄文前期(6000-5000年前)以降、中期(5000-4000年前)、後期(4000- 3000年前)とプラントオパールによる稲作の痕跡がコンスタントに見つかっている。日本の米作りは6000年前から途切れることなく現在まで連綿と続い ている。縄文土器からはコクゾウムシらしい昆虫遺体も見つかった。板付遺跡は縄文晩期から弥生後期まで営まれた日本最古の稲作集落の一つである。・・・ 1978年、その下層、縄文晩期の標準的な土器とされる夜臼(ゆうす)式土器だけが出土する地層から、一区画が400uも ある立派な水田跡が発掘された。 発見者は定説を覆すこの発掘に自信が持てなっかたが、その2年後に菜畑遺跡において、夜臼式土器より古い、山の寺式土器だけが出土する地層から、灌漑施設 伴った水田稲作跡が発見された。これでは弥生時代に大量に日本へやってきたはずの渡来人は、眼前に広がる青々と茂れる水田に息を呑んだはず。東にあるとい われてきた超文明国の蓬莱国はここだった、伝説は本当だった。小学6年生用教科書も記述する朝鮮半島からの大勢の渡来人については、ATLウイルス(日本 人にしかみられないウイルス。白血病などを引き起こす)に言及。加えてさらに、日本人は朝鮮半島から来たとするNHKスペシャル「はるかな旅シリーズ」 ディレクターが渡来人が大挙押し寄せたような状況は考えにくい。渡来してきた人の数となると、多く見積もって、数百年で数千人。一年でせいぜい数十人に過 ぎない。二家族とか三家族とかごく少数の人々が、長い間にぱらぱらととやって来たというのが実態ではないかとつぶやくことにも言及。

このブログでは著者は東京工業大学建築学科卒でこの分野の専門家ではないが、文系歴史家がでっち上げた日本歴史の盲点を暴いているという。長浜浩明氏は自 説を 推論で述べることはしない。あくまで既に公表されている論を紹介していくのみであるが、それが定説への真っ向反論となる。門外漢でも、いや、門外漢ゆえの 遠慮なき論説筆致の展開が可能になる。弥生時代に縄文人が征服された理系データはない。つまり江戸時代の人と明治時代の人、いわば江戸人、明治人がおなじ 日本人であるのと同様に縄文人も弥生人もおなじ日本人である。また沖縄の人もアイヌの人も本土縄文人、つまりおなじ縄文日本人DNAを引き継いで現在にい たっている。文系歴史学者は間違った学説の訂正反省はあってしかるべき。ところが較正炭素14データ年代測定による発表が行われた2005年、日本の考古 学会はパニック状態でフリーズし、あげく猛烈な反発、拒否、嘲笑・・・肇国精神(ちょうこくせいしん・大東亜戦争当時の国策教育精神)だ、ナチのゲルマン 民族理論だ、そんなことでは中国や半島よりより文明国になってしまう・・・などなどの怒号に満ち満ちるという反応をしめした。定説を拒否することは学会の 重鎮やその系列の学者にとっては糧道を絶つに等しい恐れを肉体的に感ずるのかも。

2015/12/12の朝日の神奈川版に横浜ユーラシア文化館で開催中の「岩に刻ま れた古代美術」展にロシア・極東の村シカチ・アリャンの岩絵は北海道に残る縄文時代の線刻と酷似しているという展示があると紹介された。皮肉にも横浜ユー ラシア文化館は司馬遼太郎や山本七平の説のもととなった騎馬民族説を唱えた江上波夫を記念するものだ。この展示の企画をしたのはユーラシアンクラブの大野遼氏。ンシカチ・アリャンには隠れて しまった太陽を呼び戻した という話が伝わっているという。日本の岩戸神話にそっくりだ。青森で発見された土器の分析で 縄文時代は16,000年に始まったことになる。まだ氷河期である。海面は今より60m低く、日本海は湖水だった。海面が上昇したのは温暖化した紀元前1 万年以降だ。日本列島への人の流入は朝鮮半島を南下しても対馬海峡 は渡れない時期でも。北から津軽海峡を歩いて渡るほうが早かったかもしれない。というわけで、日本人の大多数の先祖は北海道経由で南下したのが大部分とし てもおかしくないのだ。狩猟採取民であった縄文人も次第に定着して農耕を始めたというわけである。ンシカチ・アリャンの岩絵は長浜浩明氏への援護射撃か。

人類がアフリカを出たのが10万年前。青森県外ヶ浜町大平山元I遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万 6500年前と出たことから当時青森に人がいたことは確か。日本列島での人類の足跡も9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)に遡るとすれば、人類は意外に 早く日本列島に達している。化石燃料も使っていないにも関わらず温暖化のために9〜8万年前の海面は現在より高かったのでどうやって日本列島に渡ったのだ ろうか。私が人 為的温暖化説は錯誤だとする理由はこの点にある。3−1万年前は海面は現在より50mも低かった。2万年前は140mも低かったので十分歩いて渡れた。こ うして列島に入った狩猟採集民は定着して農耕を始めた。稲は交易で手に入れた。なにも大勢の人間が稲作をもって朝鮮半島からわたってきたという物的証拠は ない。黒曜石の分布から、近海の海は船で移動していたようだ。旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段を持っていたことが想像できる。さらに、物証の 丸太舟は残っていないが、神津島の黒曜石は、全国に散らばっているどころか、朝鮮半島にも渡っている。稲つぶだって黒曜石と同じに交易されただろう。江上 某の騎馬民族説はロマンがあったが単なる夢想だった。

日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。さらに、それら の動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、 それらの混合相となった。 ナウマン象は約35万年前に日本列島に現れて寒冷化のためか人類による狩猟のためか不明だが約1万7000年前に絶滅している。野尻湖遺跡の約4万年前の 地層からナウマン象の骨製品がまとまって発見されているため狩猟が原因なのだろう。

日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が 見つかっている。日本は 酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得 の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたとい うから、それは移動性のある動物の行動生態と関連しそうであるし、また彼らの道具を見ると、植物質資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石 斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達したからであ る。




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