メモ

シリアル番号 表題 日付

075

杉原千畝(ちうね)

92/12/23

1992年当時杉原氏のことを知り、調べて作成した本メモを鎌倉プロバスクラブで講演された 駐日ルクセンブルグ大公国名誉副領事の吉野忠彦氏がチェックされ修正、補筆されたものである。

●1900年(明治33)1月1日岐阜県八百津町生まれ

●1919年早稲田大学を中退、外務省留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。

●ハルピン総領事館、満州国外交部勤務の後、東京での外務省勤務を経て、1937年在ヘルシンキ公使館の代理公使に。

●1939年8月28日新設された在リトアニア共和国首都カウナス領事代理として赴任。語学力を活かしての情報収集が任務。

●1939年9月1日ナチス・ドイツが西ポーランド攻撃開始(第2次世界大戦勃発)

●1940年6月15日ソビエトがリトアニアに進駐し、8月3日併合

●各国領事館は閉鎖を要求され、杉原も準備を始めたが、その最中多数のポーランドからのユダヤ難民が日本通過ビザ発給を求め、突如領事館前に集結(7月18日)

●後にイスラエル宗教大臣になるバルファフティク氏を代表とする難民の委員会と交渉を開始。東京の本省に発給の訓令を求めたが、3国同盟締結のためドイツを刺激したくない松岡新外相は条件(第3国の滞在ビザ保有、十分な所持金)未達のものへの発給を厳禁。

●10日間悩んだ末、7月29日上記外務省の訓令にそむき、「人道上の理由」から条件未達のユダヤ難民に大量の通過ビサを発給した。これを”杉原ビサ”という。現地のオランダ名誉領事の協力(キュラソー・ビザ)も忘れてはならない。

●8月25日の領事館閉鎖後もホテルや駅頭でビザを書きつづけ、9月5日ドイツへ退去。

●結果として少なくとも6,000人のユダヤ人の命の恩人となる。

●杉原氏一家はブカレストで終戦を迎えた後、ソ連に抑留されたが、1947年に帰国、直後、訓令違反などの理由により失職。カウナスの件は闇に葬られた。

●転職を続け、最後は商社マンとして15年間ソ連に駐在、30年間鵠沼に住む。

●恩人センポ・スギハーラの名をユダヤ人は忘れず、バルハフティックや日本に残ったシムキン等は杉原を探し続けたが、日本の外務省の厚い壁に阻まれ、28年後の1968年にやっと再会。

●再会後、イスラエルより「イスラエル建国の恩人」「諸国民のなかの正義の人」として叙勲される。

●杉原氏は1986年(昭和61年)7月31日没。享年86才。幸子夫人は、鎌倉に在住、夫の名誉回復に全力を注いだ。その甲斐あって1992年に国会で名誉回復された。

●イスラエルには杉原記念林、リトアニアにはスギハラ通りなど多くの記念碑がある。イスラエル、日本、リトアニアで記念切手が発行された。

●生地八百津町にも「人道の丘公園」が建設され、杉原記念館がある。

●杉原千畝氏の御子息(伸生氏)は戦後ユダヤ人協会の支援でイスラエル留学を果たしている。


以下は鎌倉プロバスでの吉野忠彦の卓話「”杉原ビサ”の周辺―ユダヤ人を救った日本人達」での追加見解

●幸子夫人と結婚する以前にロシア正教に改宗し、ロシア女性と結婚していたが、満州から帰国直前に離婚

●杉原氏のハルピンでの研修時代の同窓生であった根井三郎もウラジオストックの総領事館にあって、杉原ビザによる難民の敦賀への渡航の支援をする。

●神戸に到着したユダヤ人達は杉原ビサの滞在期限が切れても、小辻節三の外務大臣の松岡洋右への働きかけなどがあり、寛容な扱いを受けた。神戸では瀬戸四郎、斉藤源八などのホーリネス教団が難民の世話をし、多くの人が最終的には上海へ逃れて行った。

●杉原とは別に満州と上海で難民を救った人々は樋口季一郎、下村信貞、松岡洋右、安江仙弘、犬塚惟重、真鍋良一、中川収三、草刈義人らである。関東軍の参謀長東条英機ですらユダヤ人の救出を大目に見たという。そういう意味で、ユダヤ問題に関する限り、日本はナチス・ドイツとは大きな一線を画していた。

●杉原千畝氏の御子息(弘樹氏)と内海恒雄は同級生だが惜しむらくは御子息は最近病死した。

●イスラエルのシャミル外相が来日したとき(1985年)、杉原氏が車椅子に乗って、中曽根首相も臨席したレセプションに来た。その場にいたイスラエルの人々が皆杉原氏を取り囲んだため、杉原氏の美談を全く承知していなかった中曽根氏が顔をしかめ、イスラエル大使が事情を説明したという後日談が残っている。翌日から杉原氏の名前が広く知られるようになった。彼は翌年亡くなった。

Rev. 2006/2/21


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