読書録

シリアル番号 916

書名

巨大古墳の世紀

著者

森浩一

出版社

岩波書店

ジャンル

歴史

発行日

1981/8/20第1刷
1984/3/10第5刷

購入日

2007/11/23

評価

岩波新書

鎌倉図書館蔵

難波・飛鳥・初瀬・山の辺の道を歩く旅から帰って古墳時代から日本国家統一までの歴史に興味をもって図書館から借りてきた本の一つ。

これも古い文献である。

著者は誉田山古墳を応神天皇陵 とすることには疑問を呈しているどころか応神は仁徳とおなじだという説まで紹介している。定かでない特定天皇名で呼ぶことを学問的によしとせず、仁徳天皇陵古墳もあえて大山古墳となずけて論じている。

顕宗(けんぞう)天皇は雄略 天皇によって父を殺されたうえ、墓まで造ることを禁じられたため、怨みを持ち、自ら天皇になったとき雄略 天皇陵をあばこうと部下に指示をだしたがいさめられてやめたという話が紹介されている。

箸墓古墳は第7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫(やまととびももそひめ)の墓とし、最近の説である卑弥呼については言及がない。倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻で、夫が小さなヘビであったと気付いたあと、箸で陰部を突いて死んだので箸墓という名前になったという神話を披露した後、しかし今だ古墳時代の遺跡から箸は出土していないという。

縄文海進のころ、河内平野の東寄りの今の大東市には河内湾という巨大な内海があった。この湖の西には百舌鳥古墳群から北に伸びる上町台地という洪積台地によって大阪湾から仕切られてできた内海であった。海面が下がるにしたがい、河内湾は淡水湖となり河内湖となった。深野池がそのなごりだ。百舌鳥や古市に巨大古墳が造営されるころはこの河内湖の時代であった。従って古市古墳群は河内湖に連なる河川をつかった水運が期待できたということのようだ。

雄略 の時代は倭の五王の時代で河内では大規模な土木工事すなわち巨大古墳、水運用運河、灌漑用水路が作られていたことは間違いない。この著者は河内王権、ないし河内王朝は地域国家であったというのが著者の見解である。

河内の巨大古墳は江上波夫の騎馬民族征服王朝説で説明できるとする。しかし最近はこの騎馬民族征服王朝説は分が悪い。


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