読書録

シリアル番号 883

書名

山本七平の武田信玄論 乱世の帝王学

著者

山本七平

出版社

角川書店

ジャンル

歴史

発行日

2006/12/10初版

購入日

2007/08/16

評価

ヨットの帰り、 光文社新書、香西秀信の「論より詭弁」を買いに藤沢の書店に出かけるが水曜日で休日のため買えず、代わりに目についた本書を購入。NHKで井上靖原著の信玄と山本勘介の一代記を見ているため 、興味を持っていたためである。

山本七平氏は信玄が大好きのようである。上杉謙信など糞みそである。

関東平野程もない狭い甲府を本拠とした武田がなぜ強大な軍事力を持てたか不思議に思っていたが、著者は上野晴郎氏の試算を紹介している。すなわち関東平野は当時はまだ湿地帯で、排水溝を掘って排水する能力もなかった時代は関東平野は米を産せずむしろ山間の盆地は意外に米の生産性が高かったためという。信玄最盛期の領国の石高(万石)は甲斐25、信濃51、駿河17、遠江10、三河4、美濃恵那郡3、飛騨吉城郡1、越中7、上野16の合計134である。甲信二国だけでも76で徳川の尾張名古屋62や仙台伊達の62万より大きいのだ。

この国力と甲州と信州の望月の牧などが産する馬が手にはいったのと兵農分離しない兵が馬の扱いになれていたために兵站能力にすぐれ、鉄砲出現前は最強であったという。

この最強の軍団が息子の勝頼の時になぜ天目山で早々と滅び去ったかといえば、勝頼が鉄砲時代の到来とともに戦術も変えなければならないということを理解できなかったということになろう。長篠の戦前夜の作戦会議で馬場信房、山県昌景、内藤昌豊ら 実線派のベテランは積極的攻撃の危険を説いたのに、長坂長閑(ながさかちょうかん)、跡部大炊助(あとべおおいのすけ)らの内政グループの誤った献策を信じた勝頼は聞き入れず、無謀な突撃戦法にでたのである。

「おじ気づいたか、戦は時の運じゃ。戦ってみなければわからぬ」と大将に言われては、みすみす負けるとわかっていても、戦わざるをえなかった。

敵陣に向かう馬場信房は、馬上の味方に向かって「何を言おうと犬の前の経じゃ。討死、討死」と呼ばわるや、馬を駆って柵の前に突進していったという。

相互信頼を重んじ温情的性格の信玄が優れたリーダーシップを発揮して必ず勝つという信頼を家臣にもたせ、その信頼でつなぎとめられていた自給自足的領国経営をしていた小領主的な24将達は信玄なきあと、勝てる指揮の出来ない勝頼の下では武田王国に忠誠をはげむことはなかった。 どの勝ち馬にのるのが有利かで身の処し方を判断する小領主らは落ち目の主君を見限るのは当然であったのだ。

ちなみに幻の軍師山本勘介といわれる謎の人物は信玄が何人か使った情報部員を代表する人物で、孫子のいう裏情報を集め、信玄はこれに基づいて判断し、24将達の信頼を勝ち得てヘゲモニーを確立したという。情報部員となったのは諸国を旅する商人や僧侶、山伏であった。全国を股にかけて稼ぎまくる甲州商人のルーツは古く、河口湖畔の船津の棒手振(ぼうてふり)と呼ばれる行商人は鎌倉時代からの特権を持っていたという。

信玄が勝頼に遺せなかったのは兵農分離した専業化した武士団と経済もふくめ、大名の下に中央集権化した体制であった。これに成功したのが濃尾平野からでた信長であったのだ。

勝頼の失敗をみていた家康は改易、国替え、参勤交代制度をつくってたとえぼんくらな子孫でも体制が崩壊しないような仕組みをつくったが故に徳川幕府は長持ちしたのだ。


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