御牧ヶ原台地(みまきがはらだいち)

白樺高原の女神湖から芦田川沿いの県道40号線を上越自動車道の東部・湯の丸ICに向かいまっすぐ下ってくるととやがて蓼科山に発する鹿曲川(かくまがわ)が北八ヶ岳北面のなだらかなスロープを描く山腹を深くえぐって作った渓谷に入る。この渓谷の底には東部町と望月町をつなぐ道がつけられている。地図をみると鹿曲川の東側の台地にはたくさんの溜池が散在している。等高線をみると、この台地は蓼科山に発する尾根の一つではなく、孤立した台地のように見える。このような台地では川による水の供給がないため、溜池が多いのだろうと推察した。地図には御牧原と書いてある。したがってこの台地は御牧ヶ原台地と呼ばれているようである。佐久平を出た長野新幹線はこの台地の下を斜めに突っ切っている。トンネルが時々途切れるのは鹿曲川などが作った渓谷を横断するためである。

湯の丸高原に登る道沿いにある東部町新張(みはり)にあるフロマージュ(Restaurant Serial No.214)からこの台地を見下ろすと確かにこの台地は孤立しているように見える。双眼鏡でみると台地の上には水田が見えるではないか。台地の北側は千曲川が作った断崖で切れている。西側は鹿曲川が掘った渓谷でその西側の台地と切り裂かれている。台地の東側は良く見えないが、南側は八ヶ岳には連なっていないように見える。蓼科山は雲の中だが、その右にやや低く丸みをおびた高峰は車山と推察される。双眼鏡で見れば頂上に気象観測レーダードームがあるのでそれと確認できる。

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東部町新張のフロマージュから見下ろした御牧ヶ原台地

この孤立した台地を探検しようと千曲川を渡って、台地の西側の急斜面を登った。台地の上は北にむかって緩やかに傾斜しており、ところどころ溜池が散在する水田地帯であることを確認。この緩やかな斜面を登ってゆくと水田も少なくなり、畑作が増える。やがて最も高い地点から南は下り傾斜になっていることを確認した。再び鹿曲川の渓谷に下り、鹿曲川の上流の望月町(もちづきちょう)に行き、歴史民族資料館を訪れ、この台地の歴史を館員から聞く。

この御牧原は奈良時代末に馬を朝廷に献ずる勅旨牧(御料牧場)に指定された。勅旨牧は甲斐・武蔵・上野・信濃の四か国寺に置かれ、中でも信濃が最も多い16牧を有し、その代表であるのが望月の駒であった。毎年八月中旬に、諸国の牧場から献上した馬を天皇に御覧に入れる「駒牽(こまひき)」の儀式がにおこなわれた。天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された。もと、国によって貢馬の日が決まっていたが、のちに一五日となり、諸国からの貢馬も鎌倉末期からは信濃の望月の牧の馬だけとなった。この馬は「望月の駒」と呼ばれ、牧場は望月牧(もちずきまき)とも呼ばれた。

逢坂の関の清水に影見えて、今や曳くらむ望月の駒  ( 拾遺集 巻三 紀貫之)

を代表に、八十首ほども古歌に登場している。今様に変えれば「通関も終えたと聞き及ぶ、新型ロールスロイスいかに」とでもなろうか。

旧中山道はこの御牧原の南側の鞍部、瓜生坂(うりょうざか)を通過したので、ここにあった宿場は望月宿とよばれた。

蓼科山に発し、御牧原台地の東側を流れる布施川がこの瓜生坂付近で台地の西側を流れる鹿曲川と接近したため、水のエロージョンで鞍部が生じたと推察される。この台地の東西を平行して北に流れる二つの川はやがて西行する千曲川に合流する。こうして三方を深い渓谷で囲まれた御牧ヶ原台地が形成されたのだと推察される。

望月の馬を乗り回した、武士集団は戦国時代には望月氏とよばれ、海野氏(うんの)、称津氏(ねず)とともに武田軍団に統合されたそうである。いまでも望月とか海野姓は多い。東部町の国道18号線沿いの海野宿と海野一族とはどういう関係にあるかは知らないが、N響の海野というコンサートマスターは長野出身の演奏家だった。

御牧ヶ原台地に水田が開墾されたのは明治時代にはいってからで廃藩置県で小諸藩が解体されたとき、藩士らがここに入植して溜池と水田を開いたのだそうである。江戸時代にすでに蓼科山より五郎兵衛用水(1630年)、塩沢堰(1645年)、宇山堰(1648年)、八重原堰(1662年)が築かれて現在の立科町周辺の水田に水を供給していたが、この御牧ヶ原台地に用水を引くことは技術的にできなかった。従って天水だけに頼った開墾であった。いまでも御牧ヶ原台地が野馬囲い(馬が逃げないように掘った堀)が残っているそうである。

昭和37-47に至りようやくサイホンの原理を用いた県営御牧ヶ原農業水利改良事業で赤沼ため池(現女神湖)の水をこの台地に導く水利事業立科第1,2,3号幹線の統合整備、御牧原第1,2号幹線の新設が完工した。立科第1,2,3号幹線の統合とは江戸時代にすでに完成していた五郎兵衛用水、塩沢堰、宇山堰、八重原堰の統合整備のことである。

女神湖畔の看板に描かれている用水の系統図はまことに複雑。白樺湖と女神湖は近くにあるが白樺湖と女神湖の間に分水嶺がある。女神湖と蓼科山周辺(白樺高原というらしい)の沢から流れ出る沢水は本来本沢を流れ下るのだが11kmの長さの立科第1号幹線で長門牧場と県道40号線を横切って尾根の東側の万仁田沢に流し込む。しばらく万仁田沢を下った水は6kmの長さの立科第2号幹線で再度尾根を横切って西側の芦田川に流し込む。芦田川を流れ下った水は今度は荒井戸で8kmの立科第3号幹線で立科町の灌漑用水になる。この用水の一部が切掛で分水され、芦田川を渡る切掛サイフォン管、鹿曲川を渡る望月サイフォン管からなる12kmの御牧原第1号幹線にて御牧ヶ原台地に灌漑用水がもたらされるという仕組みである。御牧原第2号幹線は細小路川の水を布施サイフォン管で御牧ヶ原台地に導くものである。蓼科山から御牧ヶ原台地まで全長20kmである。

御牧ヶ原台地の北西の隅には東京電力の水力発電所の水管が見えるが、この発電用水は千曲川の上流、ちょうど小諸の懐古園の裏手のダムで取水し、谷を橋で渡して御牧ヶ原台地の千曲川沿いの中腹を引いてきたものである。明治政府がきめたことだそうであるが、長野県の水系での水力発電は東京電力の管轄で、配電は中部電力である。資源と需要のアンバランスの解決のためなのだろうが、発電と配電の一体運営が電力の安定供給に重要だとの政府見解との整合性はどうなるのだろう。米国のような広域停電が日本では生じないなどという、公式見解もあやしいとうことにならないか。

ところで、八重原堰は御牧原台地の西側にある同じような台地、八重原(やえばら)への灌漑用水である。八重原は武田氏滅亡ののち、徳川家康が約1万の軍勢を送って真田昌幸の上田城を攻めた時、徳川軍が終結したところである。この戦いは2,000人兵を擁するだけの真田昌幸が徳川家康を下した。海野、望月などはこのとき真田の臣下であった。 さかのぼれば海野と真田は姻戚関係にあるという。

September 4, 2003

Rev. August 16, 2007


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