読書録

シリアル番号 696

書名

無宗教からの「歎異抄」読解

著者

阿満利麿(あまとしまろ)

出版社

筑摩書房

ジャンル

宗教

発行日

2005/5/10第1刷

購入日

2005/5/30

評価

帰省し、戸隠高原に出かける前に長野駅前書店で購入。

日本では無宗教というものが何の疑問もなく公言し、大手を振って歩いている。無宗教を標榜する人にとって宗教というものを理解するために、いままで読んだなかで最良の書であろう。 著者は「歎異抄」を読解して次のように述べる。

「 虚妄な自己の行為は、いくら積み重ねても、自己を救うことはできない。その善行は、自己中心性という悪の影をいつも引きずる。都合のよい点だけを選んで自己としているのであるから、その自己が因、縁、果の大海のただなかにある自己を救うということは、部分が全体を救うという矛盾を犯していることにほかならない。部分を救うのは全体しかありえない。私という部分は、私をめぐる縁起の全体を知る阿弥陀佛によってのみ救済されるのである。 『宿業』の身だという事実に目覚めることが、唯一阿弥陀佛の本願力への帰依を生むのである。

ひとたび阿弥陀佛への本願に帰すれば『宿業』、『業縁』の自覚は、さらに思いもかけない世界を開く。それは、他者への深い関心が呼び覚まされてくることである。

そして道徳と宗教を明確に区別し、自力(はからい)を捨て、他力に帰することが肝要。

阿弥陀佛の救いを信じることは無礙の一道(むげのいちどう)を歩むこと。すなわち社会的束縛、強圧的な権力・権威にも妨げられない唯一絶対の道とする。罪悪も業報も感ずるあたはずの心境にいたる 」

といわれれば、その通り。宗教が最後の救いとなってたち現れることがわかる。

そうして有名な言葉

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

がでてくるのだ。これを「悪人生機説」という。この思想は法然がが唱えていたことだが、旧仏教も「どんな悪人も念仏を唱えれば極楽往生できる」と説いていたという。

「歎異抄」は親鸞の弟子の唯円が書いたとされ、親鸞自身が書いたのは「教行信証」である。「教行信証」は往生説をとるが、空海の即身成仏説は類似している。

Rev. March 25, 2008


ボーイスカウト日本連盟育成会会長で元超高温材料研究センター社長の萩原定秀氏からうかがったボーイスカウトの「ちかい」は

「私は名誉にかけて、次の三条の実行をちかいます。

一、神(仏)と国とに誠を尽くしおきてを守ります

一、いつも、他の人々をたすけます

一、からだと強くし、心をすこやかに、徳を養います」

という。宗教が真っ先にでてくる。ボーイスカウトが米国発の組織であることが分かる。

米国の宇宙飛行士が来日したときの講演会である母親が宇宙飛行士になるためには子供にどのような教育をすればよいかと質問したときの回答は

「 一、宗教に対してはっきりとした信仰を持っていることです。何がおこるかわからないが、どんな事が生じても冷静な心であるために必要だ。

二、多くの人が宇宙飛行計画が成功する様にと期待していることを十分に理解するような心の持ち主であること

三、この計画には多くの人が参画しており、その方々のおかげに感謝し、信頼すること

四、必要な知識および技能は指導していただけるので一切心配ない

五、夢を持っていなければならない」

という。質問者の期待とに反する回答でその母親は大いに面食らったようであったが、知識は二の次で、宗教心がなければ、宇宙飛行士として適格性がないと理解されているようだ 。フリーメーソンの思想をルーツのところで一致している。何がおこるかわからない環境で最良の判断と行動ができる人には宗教心がなければだめだと言われているわけだ。「歎異抄」の世界と一脈通ずるものがある。ここらへんが、我々日本人が戦後の平和ボケで必要としなくなったものかもしれない。上は国家を担う 官僚の腐敗や一般のサリーマンの退廃は自己中心性のなせる業で彼らに宗教心がない何よりの証だろう。

軍人、宇宙飛行士、特攻機パイロット、自爆テロリストは己の生命を担保にする生き方で立場は異なっても宗教心あってはじめてその任務を果たすことができるのだと思う。そもそも米国人の半分がブッシュを支持したところをみると、米国人の半分は宗教を重要と考えていると見てよいだろう。米国によるパワーの一極支配を打破しようという自爆テロリストは今後も再生産されるだろうから、我々もそのターゲットになるわけで宗教心を持って対抗せざるをえなくなるかもしれないなと感ずる。IRAのテロに長年さらされてきた英国人をみればわかる。


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