読書録

シリアル番号 537

書名

原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ

著者

森永晴彦

出版社

草思社

ジャンル

環境

発行日

1997年8月18日第1刷
1997年9月1日第2刷

購入日

2000/01/01

評価

仁科賞を受賞し、東大、ミュンヘン大教授を歴任された原子核物理学者が原子力の問題を指摘し、太陽光発電に人類の未来を夢見て書き下ろした力作。パーキンソンの法則の紹介者としても貢献。太陽光発電研究に もっと政府の資金を充ててもらうために協力した関係で本書を森永先生から献辞付きでいただいて読む。

先生は第二次大戦中に一高から東大に入学したが造船や火薬を作る工科をさけて物理学科に入った。卒業間際には授業がなくなったので仁科研究所やレーダーを 開発した海軍の島田研でお手伝いをしていた。島田研のリーダーは海軍の伊藤庸二大佐であった。この人の孫の伊藤良昌氏は伊藤庸二大佐が設立した株式会社光電製作所という魚探メーカーを経営している。

島田研にいたとき、広島が爆弾1発で壊滅したとの情報が伝わると、ウラン235の分離研究をしていた仁科研の研究者がアメリカは 原爆の開発に成功したらしいと教えてくれたそうである。敗戦後3日目に研究員の椅子を壊すように命じられた。研究者の数を米軍に秘匿するのが目的だったと いう。敗戦を迎えて卒業までの1年間は長岡半太郎の子息の嵯峨根先生に師事して卒論を書き、卒業後はそのまま研究室に残って新しい加速器の開発研究に従事 した。そのいきさつは森永先生が島田研で伊藤大佐に認められたことが理由であった。終戦後、恩師の嵯峨根先生に有給のポジションをもらって米軍に調教湾に 沈められたサイクロトロンの代わりに新型加速を作れと命じられたのである。嵯峨根先生と一緒にサイクロトロンを発明したアーネスト・ローレンツとカルフォ ルニア大の物理研究所にいた後にノーベル賞をもらうルイ・アルバレーが開発したアルバレー型空洞共振器を使った線形加速器と同様の高周波発振回路がいいの ではと検討していた。

ところが肝心の嵯峨根先生がローレンツによばれて東大を辞してバークレーに客員教授となって渡ったので、サイクロトロン開発は立ち消えになり、 1951年のガリオア資金による留学生として米国に渡り、原子核物理の研究を生業とすることになったのである。森永先生はその後アイオア州立大、パー デュー大、ルンド大、東北大、東大、と遍歴し、最後にミュンヘン工科大の正教授となった。ここで若き頃構想した高シャントインピーダンスの空洞を用いた後 段加速器の試作を行った。にたようなものがニールス・ボーア研に直列に2台、スイスのヨーロッパ原子核研究所のメインリングにウランの入射器として造られ た。

嵯峨根先生はサイクロトロンの発明者であるローレンス研究所で学んだため多くの友人を米国にもっていた。そのうちの一人アルバレー博士が嵯峨根先生 あてに「米国はついに原子爆弾を開発したから、日本政府に降伏を勧告するように」という手紙を書き、その手紙を米軍機が投下したが、陸軍が保管して戦後ま で先生には配達されなかったという。

1954年の中曽根予算で原研が出来た。米国で研 究生活を送っていた嵯峨根先生は原 子力産業会議(原子力産業協会の前身)」の代表常任理事であった橋 本清之助らが所長として呼び戻した。しかし集められた秀才は官庁のお飾り的な存在と管理研究に失望して、優秀なものから去り始め、残ったも のは反体制に走り、管理者に求められた能力はアカ狩となっていたのである。嵯峨根先生やその後任の菊地先生も辞任し、原研は文系のトップを迎え、無駄使い を継続する無用の存在と化したのである。そして1960年には米国の軽水炉BWR・PWR炉が導入されるのである。

本著では軽水炉の他に黒鉛を減速材につかってウランからプルトニウムを製造するフェルミ炉、重水を減速材にする重水炉、ヘリウムを使う高温ガス炉、 スエーデンが開発した固有安全炉、トリウムを使う溶融塩炉、液体金属ナトリウムを使って減速しない中性子をウラン238にぶつける高速増殖炉などについて の解説がある。

アメリカの原爆開発には多くの亡命ユダヤ人がかかわったが、オッペンハイマーが偉かったのは軍の干渉をかれ一人でうけて部下には自由にさせたことだとい う。日本の管理優先の研究成果はろくなものがなく、管理研究ででてきた高速炉も核融合炉も間違いなく失敗すると断言している。 原爆の技術を民生用の原発技術に転用するための原子力委員会の初代委員長になったのがリリエンソールで政治に絡み採られた研究の難しさを回顧録で述べてい る。なかでも「シラードの証言」 は原研の本質を表しているようだ。

米国のパーデュー大学等で16種の新種の放射性アイソトープを発見した経験をもって東大にもどり、管理者を見ながらの研究ということをしてみたが日本の学 界の風習に耐えられず、東大助教授をやめでドイツの正教授になっ た。23年間ドイツの大学の教官をした経験からドイツでは学生の求人は工学、物理などという大雑把な分類でされるため、電力会社には物理も電気も化学屋が 雑多にいるが日本の電力会社には原子炉をつかっているのにかかわらず物理屋がいない。物理屋がいるのは東芝・日立というメーカーだという。これが原発が将 来電力会社の重荷になるという感覚が電力会社内にかもし出されない理由だとしている。

ドイツと日本の原子力政策は似通っていると感じているが違うところが2つある。一つは高速増殖炉から手を引いたこと、も一つは大型核融合炉(ITER)の 誘致から降りたことである。 ドイツ、アメリカ、ロシアにうまく逃げられた日本とフランスが貧乏籤を引いて途方にくれている。逃げた国はベロをだして笑っている。この差はどこからでた かといえば、その根にはドイツの役所の人は日本の官僚のような問答無用的なところが少ないことである。したがって自由に意見が言え、役所も柔軟な判断がで きるところにある。 日本国を動かしているのは文系だから核融合など100年立ても目処もたたない研究に無駄金を投じるはめになる。フランスも中央主権的官僚の強いところは日 本とおなじ。ドイツはさらに賢く、燃料再処理と汚染は全部フランスに押し付けている。

安全に関しての真理は「備えあれば憂いなし」であるが、日本では「備えなければ憂いなし」の構えになっている。有名大学の原子力工学科が何を教えるのか分 からない名前になってしまったという。そしてそのなかにPR専攻コースというのがあるそうだ。ドイツもにたような傾向があるがフランスは原発の近辺ではい ざ事故が起こったときにいかに対処するかくわしく記した冊子が配られている。

先生は放射線測定器が普及し、放射能教育がなされることが原子力利用の安全に必須と訴えている。先生はチェルノブイリ原発事故時にドイツに居て同僚と共に 降る雨と地面の放射能測定をした経験があるからである。そしてその雨の中、なにも知らない学校の先生は子供たちを遠足に連れ出したのである。

さて本論の核融合についてだが、トリチウムという放射性物質を副産すること、炉材に目処がたっていないこと、仮にベリリウムが使えたとしても融合炉を数個 作れば世界の資源は枯渇してしまう とベリホフが言っていること(現在では資源的には充分とされている)、経済性がないこと、で研究は放棄したほうが賢いのだが、原研という管理のための科学 が中心となっているところでは考え方が硬直化し、無駄に国費を浪費していると指摘している。

パーキンソンの第二法則の バリエーション「平時の浪費」を上げ、「どんな国王も宰相も、ニュートンに重力の法則を発見せよと訓令することはできなかった。大蔵省の役人がフレミング にペニシリンを発明せよと命じたこともない。国が核融合技術を開発せよと命じてもそれは無意味なことなのである。科学を支えているのは金ではない。むしろ それは精神的民度なのである」と結んでいる。

Rev. January 30, 2014


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