読書録
  
    
      | シリアル番号 | 1360 | 
    
      | 書名 | ドーダの近代史 
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      | 著者 | 鹿島茂 
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      | 出版社 | 朝日新聞社 
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      | ジャンル | 歴史 
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      | 発行日 | 2007/6/30第1刷 
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      | 購入日 | 2018/11/27 
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      | 評価 | 良 
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加畑蔵書
10年前ドーダ学ななるものが話題となったことがあったそうだが、寡聞にして知らず。今日に至る。今年のNHKの看板番組「西郷ドン」のおかげでリバイバルしているという。友人の加畑氏が親切に蔵書を貸してくれた。
「ドーダ理論」は
東海林さだお氏が提唱する「ドーダ学」(人間の表現はすべて「ドーダ!」という自慢、自己愛の表出だとの観点で社会の事象を分析する)を使って、水戸学や
西郷隆盛、中江兆民、頭山満などを解読。政治・経済活動、革命運動や社会運動も表現行為とみなし、ドーダにサブ・ジャンルを立てて分析した抱腹絶倒の新し
い近代通史の試みという売りだ。そもそもドーダ理論は漫画家の東海林さだお氏が提唱したものだそうで鹿島氏がこれを発展させて水戸学、水戸黄門、西郷隆
盛、高杉晋作、渋沢栄一、徳川慶喜、ジャン=ジャック・ルソー、中江兆民、頭山満、昭和陸軍などを解読したという。
マンガを読むようにとても面白く読んだが、読後感はよろしくない。ある事象の説明を別の言葉に着かえただけという気もする。とはいえ、日本の軍部が戦争に走ったのもこの西郷
的ドーダが原因とすれば多少は考慮しなければならないのか?ただ文学や芸術、音楽はすべてドーダではないのか。そ
してドーダではない批評や文学はあり得るのだろうか。そもそも意見の表出そのものがドーダという言葉の定義に包まれてはたまらない。こういう本の弊害は自
由闊達な言論をドーダ論で封じ込めることにも使われるおそれがるのでとても不快である。日本社会はまた同じ道を走っているのかもしれない。
著者は西郷は「政の大体は、文を興し、武を振るい、農を励ますの三つにあり・・・」と書いている。農を励ますというところが江戸時代の認識よりも後進性を現わし
ているところが西郷の反動的な面であると批判するのはピンボケで文治国家論のほうが大問題だとしている。西郷にとっての「文」は倫理の根幹としての儒教
道徳であった。ここにこそ、大久保や大隈がねらった法治国家とは相いれない。無学の徒の言いぐさとみてよいという。したがってドーダ論は知的人間に権力を
与えることはさけて人徳のある人間に権力をゆだねるという典型的アジア的考えの系統に属するとみてよいのでは。だから日本の指導層は国を誤ったというわけだ。これは台湾最大の「文武廟」を訪問した時以来持ち続けている考えで倫理に重点を移しつつある安倍政権の危険性を告発した「日本の政治・経済の不調の原因」にも書いた通りだ。そもそも水戸黄門、西郷隆盛、高杉晋作、中江兆民、頭山満などは国滅ぼしたできの悪い奴に違いない。NHKもこういう人物を日曜日のゴールデンタイムに取り上げるべきでなない。
鹿島茂はドーダ理論を更に展開してドーダの人西郷隆盛、小林秀雄、森鴎外についても書いている。鹿島茂は小林秀雄が「ドーダ、俺は凄いだろう」という人
だったとこの本で説明している。丸谷も鹿島も小林が生きていたら言えただろうか。文壇という閉鎖社会のくびきを乗り越えられただろうか。鹿島はフランス現
代思想の紹介者にも「ドーダ」があるとも言う。この本は朝日新聞が出版している。時代は変わった。何となれば朝日が岩波と並ぶ「ドーダ」の本家だという見方もある。
『批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である』は小林秀雄の全き本音であり、小林秀雄はドーダしたいがために、ランボーやヴァ
レリーを翻訳したのであり、批評を書いたのである」。ある評者は「東大仏文科の後輩に当たる鹿島によって、自分のドーダ体質がこれほど手酷く白日の下に晒されたこと
を、あの世の小林が知ったなら、どのような技を繰り出して反論するだろうか」と書いている。