読書録

シリアル番号 1092

書名

仏教の伝来と日本人の対応・自然観

著者

信濃千曲

出版社

文化書房白文社

ジャンル

宗教

発行日

2011/10/30初版

購入日

2011/11/21

評価



飯島正亜細亜大学名誉教授の謹呈本。信濃千曲は先生のペンネーム。

2006年10月11日、飯島正先生の新潟の別荘「案山子山荘」で西沢重篤氏と3人でタラチリ鍋を囲み、夜半まで佛説摩訶般若波羅蜜多心経、文明 論、先生の教え子たちの思 い出話 、台湾で蒋介石の腹心で総司令部参謀長であった何応欽(かおうきん)に会ったことなど の思い出話を肴に痛飲 したことがあったがその時の話を本にしたのだという。

飯島先生は環境問題の解決には環境倫理が必要だと考えて仏教の研究を開始し、神道、キリスト教を比較し、トインビーの指摘を引用して、自然と調和して生き る神道、道教的価値観が大切ではないかと説く。そういう見方からすれば福島の原発事故はキリスト教的な考え「人間が自然を制御できる」といううぬぼれから きていると見えないことはない。ただ神道、道教の教えは化学物質による環境汚染は防止できても原発のような元素を変えて長寿命の放射性物質を作り出すよう なものを前提にしていないため、神道、道教の教えでは対処できない。

ドイツの国立大学の終身物理学教授となった森永先生は福島原発事故は日本政府 が「公的ウソ」を弄して原発は安全だと国民を欺いた結果だと考えている。ウソは原発村の常套手段で、結局その公的ウソは事故で暴露され国民の政府への信頼 を大きく傷つけたとみる。森永先生 は「公的ウソ」がまかり通 るのは、日本に神の概念がないからだという。たしかにモーゼの十戒の9番目に「嘘(偽証)をいってはならない」とある。西洋にもウソをつく人は多いが、一 応罪の意識を伴ってウソをつくため、抑制 が効いているからというわけ。仏教が興った同時代にインドにジャイナ教が興り、出家修行の大誓戒の第二番目に虚偽の言葉を使うなというのがある。しかしこ の教えは日本に伝わらなかった。

キリスト教は原発を作り出した科学技術のゆりかごだ。 こうして進化した科学技術を日本人に飲ませるために皮肉にも 公的ウソが多いのは日本にはキリスト教の神という絶対価値が存在せず、相対価値しかないためだと思う。人間関係を大切にするあまり、「ウソも方便」 という文化に浸りきり、罪の意 識な く、平気でウソをつくことができるのではないか。仏教もウソには寛容である。自然現象(神)の恐ろしさを 理解せず、人間間の仁義だけでうごく官僚、政治家。彼らに予算を握られた技術者は全く無力で、権力に媚び、自然現象(神)の恐ろしさを忘れて原発は安全だ とウソをつ く。官僚は江戸時代の武士のなれの果てだ。その武士のバイブル「葉隠」 「聞書第八、一四」には「一町の内七度嘘言言はねば男は立たぬ」とある。むべなるかな。

松 原友夫氏が監訳したナンシー・G・レブソンの「セーフウェア 安全・安心なシステムとソストウェアを目指して」の訳注にintegrityとはオックスフォード英英辞典によればthe quality of being honest and having moral principlesとある。しかるに原子力分野では「健全性」と訳され、情報分野では「完全性」、「整合性」と訳され、肝心の正直、倫理が抜け落ちてい る。ここらへんに日本の借り物技術のはき違えがあるのかもしれない。

飯島先生も森永先生もなぜか儒教の害について触れない。儒教の五常には確かに「信」がある。しかし「仁」、「義」、「礼」ほど重要視されない。江戸時代の 武士と現代の官僚や企業経営者が信じているのは無論キリスト教ではなく、神道でもなく、 道教でもない。やはり支配階級のご都合思想である儒教なのだろう。儒教は組織防衛のための上下関係の秩序を保つのを最大の徳としており、そのためにはウソ などどうでもよいということになるのでは。「民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」という孔子の言葉がなによりの証拠。 「無用の混乱が生じる」といって SPEEDIの情報を公開せず議事録も作成しなかった政府の態度の精神的支柱となっている。会社でも官庁でも「お家大事」がそこでメシを食うための黙示の 規範である。儒教 では徳治主義などというが、キリス ト教的見方からみれば人間の性は性悪なのだ。というわけで徳冶主義など 人間性の面からは不可能なウソ八百のご都合主義ではないか。徳治主義から人民を政治的客体とみる愚民観がでてきて、どんなウソも平気で弄する官僚が澎湃と 出 現する。儒教がどうであろうと、ウソは必ず馬脚を現す。なぜなら自然現象は人間社会の掟に従う義理はないのだ。儒教こそ自然を無視する人間統治の傲慢な思 想と私は思う。 飯島先生が儒教を自然保護のために必要な宗教と考えなかったのは人間間の掟しか考えず自然を完全に無視していたためという。しかし自然を利用する科学技術 の時代に自然を考慮にいれない思想など欠陥いがいの何物でもない。日本はいまだこの儒教のくびき から解放されていない。そして人間関係だけしかしらぬ文系が国をミスリードする。危惧すべきは本家の中国がこの頸城から解放 されるかであろ う。

官僚、政治は文系の牙城だ。彼らはもしかしたら技術は自然現象を人間の都合のために利用しているという原理を知りもせずに、安全と信じたかもしれぬ。しか し理系の学者、実業界の技術者も技術のなんたるかを認識せず、ウソをウソと思わず、口にしたともいえる。すなわち原発村の理系住民はその恐ろしさを認識し ていなかった阿呆ということになる。さしずめ東大原子力工学科の教授連がその代表だろうが、日本の大学は技術は自分の頭で考えて開発したものではないた め、骨がなく、人間間の都合、すなわち権力になびいて自然を忘れがちだ。これは恐ろしいことで、日本には新しい技術を生む伝統も、基盤もな く、発展途上国と無益な価格競争しかできないということになる。これが日本の地盤沈下の真の原因かもしれない。


Rev. January 16, 2016


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