ノースウエスト・アース・フォーラム

川上私記 回想のアフガニスタン

首都カブール

     カイバル峠越えのアフガン入りとクーデタ取材を果たせなったが,その後、パキスタン在任中にこの年から翌1974年にかけて2、3回アフガンを訪れた。冬の首都カブールは寒気の厳しい、くすんだ街だった。在留日本人は十人に満たなかった。数人の大使館員と水道技術者、看護婦、商社員一人ずつ。商社といっても確か丸紅だったか、雑然とした商店街の二階に狭い事務所があり、商品の絨緞が折り重なっていた。街角の小さな店の店頭に、売り物とおぼしき羊の頭骸骨が積み上げてあった。きれいに洗ってあり、白かった。スープをとったガラか、まさか装飾品とも思えなかった。露天商の並んだ街で、若い警官が店の老いた主をムチで打ち据えていた。何かのルール違反でもあったのか、よくわからなかった。


    町外れの小高い丘に立つインターコンチネンタル・ホテルが、地元の人以外が泊まれる唯一の西洋式ホテルだった。ある夜、そのホテルのひと気のないバーでウイスキーの水割りなどなめていると手持ち無沙汰のバーテンが片言の英語で話しかけてきた。私が日本人だということは見当がついていたらしい。ちなみに、この国の人口の約1割を占めるハザラ人はモンゴル系で、すぐ区別がつく。最下層に位置し、雑役のような仕事にしか就けない。バーテンは「日本にはトヨタより大きい会社はあるのか」と私に訊く。そして「日本は米国に負けて焼け野原になりながら、三十年で世界有数の経済大国になった。われわれも、これから三十年後には日本のようになる」と言う。「焼け野原になったときにも、日本の識字率はほぼ100パーセントだったんだよ」と言うにとどめ置いた。アフガンの識字率は当時、牧畜・農村地帯、辺境を入れると、20パーセントに満たなかった。彼は昼間は高校の教師だと自己紹介したから、「何を教えているのか」と尋ねたら、「フィロソフィー」ということであった。首都住まいだし、彼などはかなりものの分かったほうだったと思われた。あれから40年近くが経つ。近年,米軍の戦いとともに、アフガンの様子が、しばしばテレビにも報道される。そのたびに、彼はその後どんな生涯を送っているだろうカなどと思う。


    アフガンの言葉はパシュトゥーン語とペルシャ語系のダリー語。短い滞在で通訳の確保もままならず、旧知のこの国唯一の英字紙の編集長を訪ねた。彼とは、私のパキスタン赴任前に、イランの国王シャーがテヘランで催したイラン近代化十周年の取材で知り合っていた。米ハーバードへの留学経験を持つ彼は、それこそこの国の数少ない知識人だったが、民主主義とか言論の自由とかとは縁遠い政情中で、奥歯にものの挟まったような答えしか返ってこなかった。21世紀の初頭の今、アフガンの現状を遠望しても、あのときの彼が、説明に窮した気持ちがよく分かるような気がするのである。


    帰路はカブールから空路ペシャワルへ飛んだ。ペシャワル空港でのパキスタン入国の荷物検査で、アフガンから持ち帰る地図を没収された。なぜ、と詰め寄っても答えはない。こういうときの検査官は、後進国ほど居丈高だ。そして、ジャーナリストに対してはことのほか厳しい。アフガンとパキスタン間に国境線についていさかいがあったか、あるいは第三次印パ戦争の余燼さめやらぬ時期だったから印パ紛争のタネ、カシミール地方のアフガン地図の線引きがパキスタン当局としては許せなかったのか。当時アフガンはどちらかというとインド寄りで、パキスタンとはあまりよくなかった。

(ソ連国境サラン峠へ続く)

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March 14, 2010


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