ノースウエスト・アース・フォーラム

川上私記 回想のアフガニスタン

サラン峠

    1974年の初夏にペシャワルからカブールに飛んだときは、右手にみはるかすヒンズークシの山並みが美しかった。七千メートル級の白銀の峰々が目に痛かった。カブールの町にも明るい陽光がが満ちていた。インド統治時代の英国の高官が避暑地としてカブールを好んだ、というのもうなづけた。この時はカラチでオフィスが隣りあわせだった日本輸出入銀行の中村徹さんと同行で、カブールから北方のサラン峠まで一日がかりでタクシーを駆った。道中の荒野の路傍にぼろをまとった老人がひとりつくねんと座り込んでいた。運転手に尋ねると、乞食だという。たしかにカネを受け取る入れ物が前に置いてある。だが、見渡す限り人も車の影も、畑も人家もない。カラチの人ごみの中で、終日乞食に付きまとわれている身には、なんともおかしかった。


    サラン峠の付近にはまだ雪が残っていた。ソ連社会主義への深い思い入れをまだ抱いていた私は、トンネルの入り口ので奥に続く暗闇をしばらく見つめた。峠の下を穿って、ソ連援助で作られたサラン・トンネルは、ソ連軍の戦車が通れるように設計されていると聞いた。トンネルの入り口から引き返した。このときの私はそこまで予測できなかったが、ソ連戦車がここを通り抜けて侵攻し、雪の首都カブールを埋め尽くしたのは、これから6年後のことである。1980年代の大半をアフガニスタンは実質的にソ連軍支配下に置かれた。世紀をまたいで2000年からの10年間は、米軍の戦場である。


    74年当時は東西冷戦のさなか、米国とソ連がここを舞台にいわゆる援助合戦を繰り広げていた。アフガンを貫くアジア・ハイウェイのうち、東のカイバル峠から首都カブールまでが米国、カブールから北へこのサラン・トンネルまでがソ連援助でできたばかりであった。この国はソ連だけでなく,東の方でわずかに中国とも接している。第三世界の旗手を自称していた中国は、まだ道路援助まではできず、たとえば海のない国アフガンの淡水魚の養殖などを手助けしていた。粗悪な万年筆などいろんな中国製の雑貨がアフガン国内で売られていた。

(再びカイバル峠へ続く)

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March 20, 2010


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