ノースウエスト・アース・フォーラム

川上私記 回想のアフガニスタン

クーデタ見ざるの記

   1973年7月17日の朝、パキスタンのカラチ駐在特派員だった私は、英BBC放送、続いてカブール放送で、この日早朝アフガニスタンでクーデタが起きたことを知った。赴任して3ヶ月が経っていた。とにかく現地入りしなければならない。東京でアフガニスタンとイランは守備範囲と指示されていたから、東京のアフガン大使館で入国ビザはとってあった。ところが、このビザは有効期間が3ヶ月しかなかった。着任して、支局開設の雑務に追われて忘れていたのだが、ビザは一週間前に切れていた。それでも、とにかくクーデタの現地カブールを目指さなければならない。採用したばかりのカラチの通信社記者で、わが助手アミンの「この仕事はタフ(骨の折れる)仕事ですね」という言葉に送られて、タクシーでカラチ空港へ、次いでラワルピンディへ飛ぶ。

       ラワルピンディは、英国統治時代からの古い軍都。現在の首都イスラマバードは当時ラワルピンディ郊外の荒野に建設途上にあり、首都機能をカラチから順次移そうとしていた。乗り継ぎのラワルピンディ(現イスラマバード)空港に着くとペシャワル行きの便はクーデタの影響で欠航という。かねて取材でなじみになっていた個人タクシーの運転手を探す。彼はいつものように、当地唯一の西洋式ホテル、インターコンチネンタルの前で客待ちをしていた。以前カラチから出張してくる日本の商社員に訓練されたといい、オネストでパンクチュアル、ほかの運転手に比べると抜群に信頼がおけた。正直と時間厳守、この言葉は人心常なきイスラム圏(と言ってしまうとイスラム教徒に叱られるかもしれないので、開発途上国と言い変えてもよい)で仕事をする外国人にとって、なんとも心安らぐ響きを持つ。インドから無効中東一円では得がたい美徳なのであった。

        こんなときは、彼を頼りにする以外ない。彼の車でペシャワルへ向かう。未舗装とはいえ、道はしっかりしていた。荒野を抜け、丘を超え、谷間を走った。当時のパキスタンでは、最大の都市カラチにも冷房などと言うぜいたくな装置のついたタクシーはなかった。窓を開ければ,摂氏40度近い熱風が頬を刺す。ペシャワルについたときには、陽は西に傾き始めていた。

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March 14, 2010


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