第3章 1963年:流動床式脱水素

パイロット・プラントの試運転

助っ人として研究所に派遣さる

ある日、後畠課長に

「研究所が流動床を使ったプロパンの脱水素プロセスのパイロットプラントを作ったが、運転できるやつがいない。君ちょっと行って手伝ってやってくれないか」

と言われた。研究所などという辛気臭いところはいやであったが、流動床なるものには興味がある。それに運転現場は技術者にとって学ぶものが転がっているところだ。それにこのパイロットプラント建設の動機がそもそも技術開発などという単純動機ではなく、 創業社長がサウジアラビアの石油省に評価してもらうためのデモンストレーションプラントだということもわかった。それなら、顧客の見学者の前で動かせてみせればよいのだろうと気軽にでかけた。

流動床パイロットプラント

そもそもこのパイロットプラントを作るきっかけとなったのは社長がサウジマーケット開拓の決意で桂さんら、プロセス設計部や研究所の人間を連れてサウジの石油省を訪れ、顧客のニーズを聞いてまわったとき、

「原油生産に伴い出てくる石油随伴ガスが無駄に焼却するだけで、もったいない、有効利用の道はないか」

と聞かれ、正解は

「LPG留分を分解炉でスチーム・クラッキングし、オレフィンに変換し、一大石油化学コンプレックスを建設するか、冷却して日本までタンカー輸送してLPGとして販売するのがよかろう」

と答えるべきところ、研究所のだれかが

「触媒で脱水素してプロピレンを作る触媒技術をもっている」

と話したことの後始末だった。当時ブタンをバッチ式固定床で脱水素しブタジエンにし、合成ゴム原料とする技術があってそれの生齧りでしゃべったのであろう。そもそもプロパンを触媒を使って脱水素しても触媒表面に析出するカーボンを間歇的に焼却再生せざるをえない。スチームを加えて熱分解させるいわゆるスチームクラッキング方式では多量に生成しない ブタジエンのようなものならいざしらず、プロピレンごときものはスチームクラッキングで充分なのであった。研究所が独自開発したという触媒も原理的にはブタジエン製造脱水素触媒とおなじものであった。

切り替え式固定床では面白くないとこれもだれかが考がえたのであろう。石油を接触分解させて分解ガソリンを製造する流動接触分解技術を自社開発することになったらしい。

幾何学的縮小パイロットプラントのナンセンス

研究所に乗り込んでみるとくだんのパイロットプラントは工事部門の近川さんが直接指揮して建設中であった。大学の先輩の黒戸さんが直径60センチ高さ4メートルのプラスチック容器で流動床の模型を作り、そのなかに触媒の代わりに砂のようなガラス玉をた沢山いれたのを作ったからこれを運転してみてくれという。早速ブロワーで送風して動かしてみたが、静電気で内部は放電するし、髪の毛は立ち上がって危険でしょうがない。それでも感電に注意しながら色々試みてみたが、流動化はできてもガラス玉が反応塔と再生塔を循環してくれない。なぜか考えると工業用流動接触分解装置をまねてかつ幾何学相似で縮小して研究棟内部に納まるように作ったらしい。本物は高さが数十メートルはあるのだ。成功している接触分解装置の流動床は気固混合物の流動床の微妙な密度差で反応塔と再生塔の間を触媒が循環してくれるのだが、高さ不足では循環の駆動力が生まれないのだ。それではとエジェクタ方式で強引に駆動力を発生させてみる実験もしてみたが、うまく まわってくれない。建設中のパイロットプラントは屋外に作っているのだが、これも高さが不充分なのはあきらか。

私が

「これでは触媒がまわりませんよ」

とコメントすると

「やむをえないロータリ弁で圧力の縁切をして強引にまわそう 」

ということになった。

ついでに蒸留セクションも苦労して建設している。

「蒸留塔などパイロットで実験しなくとも設計できるではないか、なぜ無駄な金と人材を浪費するのか」

と聞くと、目的がサウジ アラビア石油省の高官にみせるためだから必要と言う。

「向こうがそんものを期待していないと思う、無駄ではないか、どうしても飾りたいなら、木で作ってペンキでごまかししたら」

とまで極論をはいて研究所の人々を困らせてはみたが、すでに遅し、結局その後も建設は続行し、結局、蒸留セクションは稼動することなく廃棄処分となった。

ロータリー弁焼付、不局部過熱、穿穴火災

さて出来上がったパイロットプラントに火を入れ、立ち上げる日がきた。日夜プラント工事に夢中になっていた研究所の連中はとつぜん、工業用計器板の前に立って、見慣れない計器をどうすればうごくのかわからず、ぼうせんとして立ち尽くしているではないか。分担も決めず、ただ藪から棒につっぱしっている連中だとあきれた。やむをえない、建設などに目もくれず、どうすればうまくたちあげるか頭のなかで日夜シミュレーションをやってきていたので、どうすればよいか明確なアイディアがある。若輩ながら僭越ですがこうしてこうしたらどうでしょうかと提言する。上司もおそるおそる言われたとおりにするとプラントはうまく立ち上がった。

定常運転になって計器が棒線を引き出すころは夕方になっている。そこで夜直に引渡し、研究所の出直室で寝てしまった。

翌朝起きてみるとやけに静かだ。どうしたのか聞き出すと、ロータリー弁が焼きついてしまって運転は停止したという。午前中大至急でロータリー弁のクリアランスを大きくして取り付け、午後再度立ち上げの担当となり、前日のように安定運転に入ったところで夜直に引きついだ。

同じく熟睡しての翌朝、また静かな朝を迎えた。今度は小型プラント故に配管壁面からの熱損失で反応が停止しないようにニクロム線をセラミックで包んで細い配管に巻きつけてあるのだが、工事中余ったニクロム線を2重に巻きつけた部分が過熱して配管が溶け、穴があいてガスが漏れ出し、火災になったという。火災を目撃しなかったの がチト残念との思いが一瞬頭をよぎったが不謹慎と思い直す。

そうこうしてプラントの外見もだいぶ貫禄がついたころ、一人の小太りのサウジ人が社長につれられてこのパイロットプラントを視察に訪れた。ものの10分も現場にいただけだろうか。彼が帰って運転は2度と行われることはなかった。

研究所に愛想をつかして逃げ帰る

ある日、本パイロットプラントを設計して総指揮をとった研究部長の善畠さんが飲みにゆかないかとさそってくれた。めずらしいことなので何事かとついてゆくと

「研究所に残らないか」

と口説きにかかる。口説かれるのは評価されているのだからまんざら悪い気もしないが、3ヶ月間研究所の実態をみて、 大学の延長のような気分の研究者を集めただけの研究所からは会社の将来を担う技術は生まれないと感じたし、自分が研究所の人々の抵抗を押し切ってその文化を根底から覆すことも不可能と悟っていたので、おさらばするのがベストと判断し 、固辞した。あとで考えてもこれが最良の判断であった。

そもそも企業の中央研究所は「中央研究所の時代の終焉」に述べられているように19世紀後半に盛んに作られるようになり、大学の研究室より業績をあげたが、次第に技術の複合化が必要になると企業の成功にはあまり寄与しなくなった。1990年代には 縮小される運命にあったのである。欧米のエンジニアリング企業はもう中央研究所など閉鎖してしまっていた。しかし創業社長は欧米の中央研究所の栄光の時代に育ったため、まだ夢を棄てきれずにいた。その 後、時代が重油脱硫技術を要請するようになると、肝心の手持ちの触媒がたいしたものでもないのに、大規模な触媒試験を並列に行えるような大規模なベンチプラントを子安に土地を求めて建設した。しかし触媒を持つメジャーに敬遠されて、本業のエンジニアリングに支障をきたすようになり、この大規模投資は無駄になった。

右往左往された研究所の人間はかわいそうなものであるが、これに唯々諾々としたがったのは彼らでもあったので自業自得でもあろうか。

この研究の顛末

さてことの顛末は漫画のようにばかげているようだが、実はこの社長の直接指揮はその後のわが社の運命を変える程の結果を生むことになる。すなわち研究所はその後も大して改善されることはなかったが、サウジアラビアが評価してくれ、最重要顧客となって製油所建設、石油化学コンピナート建設と立て続けに発注してくれることになったのである。

December 30, 2004

Rev. July 29, 2005

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