常楽寺

鎌倉プロバスクラブの会合で郷土史家の内海氏から鎌倉は大船から始まったと聞いた。大船界隈は縄文海進の頃は入江で、入江が干上がったとき、境川の支流の柏尾川に よって沖積地が形成された。

この大船の地にある粟船山(ぞくせんざん)常楽寺はもと「粟船御堂」(あわふねみどう)と 呼ばれ、北条泰時夫人の母の追善供養のために建てたものであった。創建当時は密教系寺院、または浄土系寺院でもあったとされているが、次第に禅宗色が強ま り、後に臨済宗の寺となった。

建長年間、時の執権・北条時頼によって宋の禅僧、蘭渓道隆が鎌倉に招かれた。蘭渓ははじめ常楽寺の住持となり中国風の禅宗を広め、寺には多くの僧が蘭渓の 教えを乞うために訪れた。その後、建長寺が創建され、同寺が鎌倉における禅宗の中心寺院になったが、それ以降も臨済宗建長寺派においては「常楽は建長の根 本なり」と重視されつづけたという。鎌倉国宝館に保管してある鎌倉最古の梵鐘はこの寺のものである。

常楽寺の裏山の粟船山には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。もともとは、塚はこの場所から西南に約200メートルの所の木曽免(きそめん)という田に五輪塔が建てられていたが、 1680年、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられ ている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男で人質として頼朝に預けられた。1184年源義経らが木曽義仲を討ち取ると、源頼朝は、義高を誅殺するよ う命を下す。義高が殺されて病気となった頼朝の娘、大姫は、以後それが癒えることはなかったという。

この話に興味を持って2018/7/17の酷暑の折、大船駅のかって松竹撮影所のあった鎌倉芸術館にジープで出かけた折、常楽寺に立ち寄った。イトーヨカ ドウの駐車場を出て南下し、大船中央病院の南側の道路を東に進むと道はクランクに折れ曲がり、 常楽寺の裏に東西に走る狭い独立丘の栗舟山の北側の谷に入ってしまった。やむを得ないので県道21号まで真っ直ぐに進み、右折して小袋谷切通しを通っても う一度右折して粟船山南側の道路を戻り、常楽寺山門前にたどり着く。昭和44年ころの小袋谷切通し工事で粟船山南側の関東ローム層から1万8000年前の 黒曜石製石器が出土しているという。

常楽寺の駐車場には鍵がかかり入れないので路傍に駐車し、山門まで歩いて山門を撮影した。



常楽寺山門


いずれ木曽義高の墓を含め散策してみよう。ところで、鎌倉芸術館へ行くとき通過した離山交差点は「山の内を西へ行て、巨福呂谷村、市場村の 出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄に當て独立する童山」と書かれた古墳があった当たりであろうか。今は昭和初期の松竹撮影所建設前には削られて平地となっている。その松竹撮影所も今では閉鎖されてイトーヨカ ドウや芸術館ができた。

大船駅北口駅前にあったヤマダ電機は撤退し、その跡地にショッピングセンターとマンションが建設中である。寺分にあったJR東日本大船工場跡地の再開発は どうなっているのだろうか?老朽化した鎌倉市役所の引っ越し先とか噂はあるが、藤沢市、鎌倉市がJRに要望しているいわゆる村岡新駅は費用分担に関し藤沢市と鎌倉市の話し合いが全く進まない。

July 18, 2018

Rev. July 19, 2018


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