伊豆

達磨山・金冠山

2011年2月22日、wakwak山歩会は伊豆の達磨山(982m)と金冠山 (816m)に挑戦した。といってもマーさんとコンチャンは脱落してクリさんと2名だけの登山であった。そもそも当初の計画は山岳宗教のメッカだった秋葉(しゅうよう)神社から「塩の道」をたどって竜頭山から水窪(みさくぼ)に 至る尾根を歩くことだった。だが宿となる秋葉寺三尺宿坊は週日は料理人不在で宿泊で きないことが判明し、急遽 、予備の山としていた達磨山に切り替えたものである。片道総距離3.76km、累積登り417m、累積下り96m。

総合知学会の2泊3日の合宿に鬼怒川温泉でかけていた21日に天気予報 を見て、翌日が快晴であることに気がつき、日取りを1日早めで出かけた。この判断は正解で、冷たい北風が強かったが天気は晴朗であった。

江ノ電一番電車で出かける。修善寺から東海バス戸田(へだ)行きに乗る。 途中昨年5月訪問した「虹の郷」前を通過。だるま山高原レスト ハウス前下車。

だるま山高原レストハウス展望台より富士山、愛鷹山、沼津アルプス、箱根山を 望む

ここから緩やかな尾根につけられた芝生の防火帯を登って金冠山に向かう。気持ちのいい道だ。金冠山の山頂からだるま山が見える。小達磨山を越えるといよい よだるま山の全貌が見える。草原で気持ちの良い山だ。冷たい風が吹き付けるが装備がしっかりしているから問題ない。なにより晴天がいい。西伊豆スカイライ ンが山腹につけられている。

小達磨山から達磨山を望む

山頂付近から振り返れば戸田(へだ)の港とその向こう右手に南アルプス、 左手水平線近くに御前崎が見える。南アルプスで白く見えるところは聖、赤石、悪沢が一塊り、少し離れて塩見、そして農鳥、間ノ岳、北岳がまとまって大きく、3グル−プとなっている。

戸田の港には天然の防波堤がある。ここ戸田御浜岬の先端に2本マストのへだ号の模型を展示している戸田造船郷土資料博物 館がある。ペリーが1854年に開国を求めて日本に来た頃、ロシアのプチャーチン提督も新鋭船ディアナ号に乗って、下田に来航した。ディアナ号は3本マス ト、2,000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であり、日米和親条約の締結を聞き、再び国境画定を含む日露和親条約の締 結を目的として開国の町下田に来航。安政の大地震に伴う大津波により、大破して遠洋航海が不能になったディアナ号は、幕府に申し出て修理港と決まった伊豆西 海岸の戸田へと向かうが、激しい波風に押し流されて駿河湾の奥深く、富士郡宮島村沖まで流されここで装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、駿河湾 で沈没を余儀なくされる。 乗員は全員救出されて無事戸田に収容されました。乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに帰国用の代船の建造を幕府に願い出て、幕 府もこれを許可、修理する予定だった戸田で代船の建造が決定されます。天城山の木材を使用し、近郷の船大工を集めて日露共同で日本最初の洋式造船が始まっ たのです。完成した船は「ヘダ号」と名づけられ、建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得する絶好の機会に恵まれたという。帰国する艦船を失ったプ チャーチン一行はグループに別れて帰国した。第一陣は1855年2月米国の商船フート号を雇い、159人を乗船させ帰国の途についた。第二陣は戸田で建造 された新造船「ヘダ号」で、同年3月プチャーチン以下48名が乗船して、故国に向かって出帆しする。残りの第三陣270人余は、米国船のグレタ号を傭船し て同年6を出帆した。しかし、グレタ号はオホーツク海でイギリスの軍艦に発見され、全員捕虜として捕らえられてしまう(クリミア戦争の最中で、ロシアとイ ギリスが対立していたため)。その後、香港、英国本土へ移され、ロシアに送還されたのは、クリミア戦争が終結し、講和した後だったとか。


達磨山頂から戸田の港を望む

下の写真の左手遠方は北岳、間ノ岳、農鳥が白く見える。

山頂から富士山、金冠山、小だるま山を望む

東南の方向には天城山がうっすらと雪化粧していた。

山頂にて

記録には帰路について言及がないが多分来た道を戻ったと思われる。

February 26, 2011

Rev. February 11, 2019


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