曽我梅林

2013年3月6日、グリーンウッド夫妻は曽我梅林にでかけた。ここに来たのはちょうど20年前の1993年3月の ことだった。その時は車で出かけて下曽我駅東側の大磯丘陵の中腹に駐車し、ミカン畑の中を歩いただけで、梅林は大して目にしなかった。今度はJR下曽我駅から 歩いて平地にある一番大きな別所梅林に向かった。御殿場線下曽我駅は東海JRの管轄のためかスイカは使えず、長蛇の列を作って現金清算しなければならない。

駅前広場には小田原市の看板があって下曽我駅周辺には沢山の遺跡群があるという。たとえば

下曽我遺跡群・永塚遺跡群:古墳時代の集落からは銅鏡が見つかっている。奈良・平安時代の地方役所があったところ。

千代遺跡群:弥生時代の大集落

高田遺跡群:正倉院文書記載の足下郡高田郷

●下堀方形居館:中世の土豪クラスの居館跡

いずれもJR御殿場線の西側の水田地帯に広がっている。この地は太古の昔から住みよい場所であったことが分かる。

もう一つの看板には曽我の傘焼き祭りというのがあった。1193/5/28に源頼朝が催した富士の裾野の巻狩りで、兄弟は父の仇討ちを成就した。その時、傘を燃やして松明にしたという故事にちなんで曽我の菩提寺「城前寺」で供養のためこの祭りがおこなわれるという。

そういえば箱根」の双子山の麓の精進池のそばにも曽我兄弟の墓があったことを思い出す。どういうことになっているのか調べると全国に兄弟の墓といわれるものは14ケ所もあるのだそうだ。

二宮の知足寺にもある。宗我神社は曽我氏の領土の総鎮守であったという。仇討ち現場は富士川のほとりの井出の狩宿。兄 弟のうち兄はその場で討ち死に、捕えられた五郎は井出の狩宿から15kmほど南、JR身延線の入山瀬駅から300mほどに位置する曽我寺、その寺から500mほど上流の低地で小さな河川 が合流する付近にある「五郎の首洗い井戸」と伝わる場所で斬首された。兄弟の遺骸は富士宮市の鷹岡の地で荼毘に付され、一周忌法要を箱根権現で済ませた後に養父の曽 我祐信・生母の満江・叔父の三浦義澄(父河津三郎の妹の夫)・和田義盛(遠い従兄弟)の手で富士宮の鷹岡に埋葬されたという。従って本物は鷹岡にあるという ことになる。

別所梅林に向かって歩いていると途中原梅林の脇を通る。いずれも老木で梅をとりやすいように樹高を低くしてある。東慶寺の梅のように幹に苔むしていない。湿気がないからだろう。

別所梅林では今日が最後の梅まつりをしていた。梅園の中の農道が駐車場になっている。そこの食堂で天ぷらそば を昼食とする。松田国府津線を横断してやけ薬師に向かって登ると法蓮寺にある満江御前(土肥実平の娘にして曽我兄弟の実母)の墓という標識がある。さらに登ると視界が開け、小田原の方角を望める梅園に出る。ここでワンショット。



小田原方面遠望する曽我梅園 

更に山神社前を通って坂を登ると広域農道に出る。ここからの富士山と箱根山の見晴はすばらしい。しかし黄砂のおかげか、かすんで見える。二宮尊徳遺 髪塚に下る。尊徳の母よしの実家は旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。遺髪塚はその川久保家が1938年に敷地内にたてたものという。

土産に名物の梅漬けを買って剣沢橋から 下曽我小学校、原梅林⇒駅ともどった。

今回は行かなかったが越前寺界隈は曽我氏の館跡で宗我神社は小田原城の鬼門守護の社とされていたそうである。

March 7, 2013

Rev. March 14, 2013


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