横浜山手西洋館と外国人墓地

2006年5月25日、鎌倉プロバスクラブの有志約20名が横浜山手西洋館と外国人墓地を散策したのち中華街で団欒した。

13:30JR石川町元町口改札に集合。大丸谷坂(おおまるたにざか)を登ってブラフ18番館に立ち寄る。大正末期に建てられたカトリック山手教会の司祭館をイタリア山庭園に移設したものという。

ブラフ18番館

外交官の家

イタリア山庭園

隣には外交官の家がある。明治政府の外交官内田槌が東京の南平台に1910年に建てたもので、設計はJ.M.ガーディナー。

山手本通りを歩いてベーリック・ホールに向かう。英国の貿易商人B.R.ベリック氏の邸宅として1930年に建てられた。J.H.モーガン設計。隣にはエリスマン邸がある。横浜の生糸貿易商シーベル・ヘグナー商会支配人エリスマン氏の私邸として1926年の建設。

アント二ン・レイモンドが設計した東京女子大の礼拝堂のステンドグラスは、フランスのル・ランシーにあるノートルダム教会を模倣したものとされている。

ベーリック・ホール

エリスマン邸

イギリス館

パスト・ガバナーの正山堯氏の案内で一般人立入り禁止区域を約1時間見学した。外国人墓地入り口の門柱にはトーマス・グレイのElegy written in a Country Churchyardの34-36行 目が彫ってある。

And all that beauty、 all that wealth e'er gave,

Awaits alike th' inevitable hour:

The paths of glory lead but to the Grave.

Thomas Gray 1716-1777

美人の栄華  富豪の驕奢

熟づれか無常の風に逢はさらん

栄光の路 向ふ所は墳墓のみ

トーマス・グレー

この詩の73行目はあの有名な Far from the madding crowd's ignoble strife だ。

そもそも外国人墓地はペリー提督が東京湾でマストから落ちて死んだ水兵を埋葬したいと幕府に要求してこの地の寺に埋葬したのが始まりという。商人、外交官、銀行員、医者、 薬学者、教師、軍人、船乗り、鉄道敷設技術者無線技術者などの墓が多い。 ユダヤの「六芳星」または「ダビデの星」、フリーメーソンの「ドル・マーク」、 ロシア正教の「八端の十字架」などが目立つ。

歴史に残る事件、例えば1862年の生麦事件の犠牲者 ウィリアム・マーシャル、チャールズ・リチャードソン、ウッドソープ・クラーク、鎌倉英人殺害事件の 犠牲者ウォルター・ボールドウィン及びバード、これをイラストレイテッド・ロンドン・ニュースにイラスト付きで報道した特派員記者・チャールズ・ワーグマ ン、井土ヶ谷事件の犠牲者エンリ・カミュ、キリンビールの創始者コープランド、ポトマック河に桜を植えたシットモア、快楽亭ブラック、日本に電信をもたら したエドムンド・モレル、七里ガ浜に住んだ エリアナ・パブロバ 、妻に毒殺されたウォルター・ガリュー(Walter Raymond Hallowell Garew)の墓が印象に残った。

墓の主は1886年に妻によって毒殺されたウォルター・ガリュー(43才)。墓は夫人が造ったものという。この墓にまつわる逸話とは: 昔々この横浜の居留地に美女と野獣のごとき夫婦がいた。教養あふれる美人の妻が英国より赴任してきた銀行員の男に恋し、淋病を患った夫を治療するための砒素を多量に飲ませ 夫を毒殺してしまった。不審に思ったメイドの通知で妻は殺人罪で有罪となった。幸運にもビクトリア女王の崩御のため減刑されて英国に帰り、長寿をまっとうしたという。

墓石には詩が彫ってあった。デジカメで撮影し、帰ってグーグルで検索するとアルフレッド・テニスンの「砂洲を越えて」の冒頭の句と一語違いだ。

ウォルター・ガリューの墓

Sunset and evening star,

And one clear call for me!

And may there be no moaning of the bar,

When I put out to sea.

Crossing the Bar by Alfred Tennyson

陽は沈み夜空には星

澄んだ声がわたしを呼ぶ!

わたしが海へ踏み出すとき

砂州に呻きのないことを。

アルフレッド・テニスンの「砂洲を越えて」

テニスンの白鳥の歌(辞世の詩)はSunsetではじまるが、墓石にはTwilightと彫ってある。妻は教養ある婦人ということなので間違いというより、あえて自分に訪れた 黎明の意味をこめたのではないか。そうすると陽は沈み夜空には星 星が残る黎明 となり、辞世の詩が希望の詩となる。そのためかテニスンの名は彫ってない。 この墓を造った時点での彼女の気持ちを率直に語っていて興味深い。ちなみに英語のbar(砂洲)は現生と彼岸を分かつところという意味があるという。

テニスンの白鳥の歌の下にはジョージ・ルイ・デュ・モーリアの詩が2行刻まれている。

A little trust that when we die

We reap our sowing, and so--Good-bye.

George Louis Palmella Busson du Maurier,

Trilby, inscribed on his memorial tablet, Hampstead Churchyard

私達が死ぬ時、信頼は失せ、

播いた種を刈り取りそして--さようなら。

ジョージ・ルイ・デュ・モーリア

ハムステッド墓地にある彼の墓石に記されたTrilby

外国人墓地の後は、1937年に英国総領事公邸として建てられたイギリス館と「港の見える丘公園」をほぼ30年ぶりに訪れた。港の見える丘公園にはKKRポートヒル横浜がある。(Hotel Serial No.351

フランス山は生麦事件など攘夷派の外国人殺傷事件を受け、居留民保護のためにフランスがフランス海兵隊が駐留したところだという。後フランス領事館が建設されたのだが関東大震災で倒壊し、再建されたが、第二次大戦で破壊されたままになっている。 あたりは鬱蒼としたシイの森になっている。廃墟にフランス駐留軍が建てたという風車の復原模型が再建されていた。

菜香新館にて

元町に下って中華街上海路の菜香新館で広東料理を楽しんだ。(Restaurant Serial No.283)パブ、ウィンドジャマー(Cafe Bar Serial No.226)にハシゴして散会。

幹事はガンバ大阪の社長を務めた八木さん。

May 26, 2006

Rev. July 17, 2022


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