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963

鎌倉英人殺害事件

2005/05/10

鎌倉プロバスクラブでの会長卓話:2005/05/10と2014/2/14の卓話をミックス。

<鎌倉英人殺害事件>

有名な生麦事件は薩 英戦争を引起すにいたるが、その他にも十指にあまる攘夷事件が記録に残されている。ところがそうした攘夷事件については犯人が検挙された例は少数にとど まっている。生麦事件の場合のようにほぼ実行行為者が特定できる場合ですら薩摩藩の徹底した隠匿工作の結果、犯人の逮捕にまでいたっていない。

元治元年(西暦1864年)鎌倉八幡宮の若宮大路下馬の四辻で英国派遣軍の士官2名の惨殺事件が起こった。被害者はボールドウィン少佐及びバード中尉の2名。横浜の駐屯地から馬を駆って江ノ島、鎌倉の大仏への観光の後の出来事であった。

二人は長谷の大仏の見学を終えて六地蔵をすぎ若宮大路に出たあたりで突然道端から抜刀して現れた2名の浪人風の武士に切りつけられたものである。

しかし、この鎌倉事件は先行する攘夷事件と際立った対照をなす。時の駐日英国公使オールコックによる犯人の早期検挙を求める要求に対し、この時ばかりは幕 府側の対応の素早さが目だった。事件の1週間後には蒲池源八、稲笹丑之助2名を検挙、そして迅速な処刑が実施される。主犯とみられる清水清次郎の検挙もさ れ、前2名と同様、市中引き回しの後、戸部の刑場(現在のくらやみ坂の坂上の西中学校校庭)で英国側の立会いのもとに斬首されその生首は3日間にわたって 吉田橋のたもとに晒された。

ところが翌年、真犯人の間宮一(はじめ)が自首して幕府は大いに困惑する。やむを得ず逮捕するが、間宮一は共犯者である井田普之助の名前も出す。しかし井 田普之助のゆくえは不明である。困った幕府は蒲池源八、稲笹丑之助、清水清次郎が冤罪であったことを隠すために間宮一一名のみを秘密裏に処刑した。井田普 之助は後日別件で逮捕・処刑したという。

間宮と清水の刑場近くの願成寺にある。間宮の墓は港区笹下4丁目の成就院にもある。被害者の墓は横浜山手外人墓地にある。

この事件の2年後に明治維新となるが、新政府もこの事件の真相は秘匿し続けることになる。英国公使館つき日本語通訳官として事件の事後処理にも奔走 したアーネスト・サトウの記録中には特に一章を設けて「ボールドウィンとバードの殺害」が詳しく触れられている。この記録は維新期の日本の政治外交の機微 に触れた第一級の資料であるが、明治政府からは発禁扱いで戦後になるまで翻訳が公刊されなかった。(現在は岩波文庫で坂田精一訳を利用できる)

この事件の一部始終は横浜居留地に住んだイラストレイテッド・ロンドン・ニュースの特派員記者・チャールズ・ワーグマンのイラストで残っている。

<鳶の小亀事件>(フランス水兵殺害事件)

慶応2年(1866)2月、酒に酔ったふたりのフランス人水兵が太田町7、8丁目から埋め埋めて地の坂下町を騒いで歩き、今の横浜公園にあった遊廓に入り 娘を強姦しようとしたところ、かけつけてきた鳶の小亀が、持っていた鳶口で水兵ひとりを殺害してしまった事件である。引き回しの日には沿道に横浜の芸者、 鳶職たちが総出で繰り出し、木遺音頭を唄い、小亀の冥土への花道を飾ったという。

Rev. March 17, 2014


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