極楽寺、鎌倉山、広町緑地

極楽寺か らグリーンウッド氏居住の七里ヶ浜までの散策路は海岸に沿うルートと住宅地を大きく迂回し鎌倉山 から広町緑地へ 抜けるルートがある。



2007年4月7日

グリーンウッド夫妻は極楽寺で布施茶をいただいてから、このルート3.5kmを一気通貫で歩いた。所要時間はゆっくり風 景を愛でながら歩いて1.5時間であった。

稲村ガ崎小学校を横切って極楽寺四丁目に向かうと月影地蔵堂がある。

月影地蔵

ここを左折して急坂を登ると七里ヶ浜東住宅地を抱く丘の上に出る。ここから望む極楽寺、相模湾、逗子方面の眺望は雄大である。


2007年3月7日

浅 間神社から裏大仏ハイキングコース経由で極楽寺に 抜けたとき,長谷配水地からあえて尾根伝いに稲村ヶ崎小学校に抜けられるか試みたとき、谷越しにみた料亭と思しき豪邸 を見た。地図をみると鎌倉園とある。その鎌倉園のすぐそばであるが遊歩道からは鎌倉園は奥まっていて見えない。この鎌倉園は一時料亭として営業していたこ とがあるらしい。もともとはわかもと製薬の創業者、長尾欽也の妻の長尾よねが終の棲家として鎌倉山の13万坪の土地に構えた扇湖山荘で長尾美術館として国 宝級の美術品を展示していたそうである。よねの死後、長尾美術館は閉鎖され、飛騨高山から移された桃山期の豪農の家を立て直して母家にした邸内を見学する ことが出来たが、今では正門が閉じられ 、鬱蒼とした周囲の木々に阻まれて内部を窺うことは出来ない。「わかもと」は子供の頃お世話になったものである。

鎌倉園近くの鎌 倉山遊歩道から極楽寺の尾根、霊仙山、相模湾、逗子マリーナ方面を望む

上の写真で眼前に横たわる長大な尾根は長谷配水地から稲村ガ崎小学校に至る尾根である。扇湖山荘からの眺望も似たようなものだろうと推察される。

鎌倉山には桜の花が咲き、日本タンポポがいまだ駆逐されずにがんばっている。棟方版画美術館近くを通過し、鎌倉山二丁目から広町緑地の外周道路に入って、 自宅にもどった。 鎌倉山の豪邸群は世代交代で古い屋敷は壊され、新しく奇抜な建物が建ち始めている。幸い分割される件数は多くはないがそれでも一般住宅地のような狭い分譲 地も垣間見えた。

鎌倉山の邸宅

広町緑地の山桜はまだ散ってはいない。遊歩道も有志の努力でよく整備されつつある。


2018年1月11日

グリーンウッド氏は単身、寒風吹きすさぶ中をスマホのViewrangerのGPSを連続記録モードにして2時間、広町 緑地、鎌倉山、稲村ケ崎、七里ヶ浜を合計6.3km歩いた。鎌倉山から稲村ケ崎に向かうには極楽寺方面には下らず尾根を真っ直ぐ稲村ケ崎に向かう。

駐車場ではドローンを飛ばしている人がいた。

冷え切った体を温めるためPacific Drive-inに入り、相模湾に沈む夕日をみながらビールで喉を潤した。



Pacific Drive-in

2021年4月19日

友人夫婦と一緒に数年ぶりこのルートをあるいた。『十六夜日記』の作者阿仏尼邸にあった地蔵像をこの地に移したので月影地蔵堂の名があると。散歩がたがたここに立ち寄り、おにぎりをとる。昼食ををとったあと、まっすぐ海岸にでた。

その時、十一人塚のまえにでた。333年鎌倉攻めの新田義貞軍の浜手の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)は大軍を率いて極楽寺坂の切通しへ攻め込みましたが、北条方の猛反撃 をうけて多数が討ち死にし、総退却になりました。そして、最後に残った11人もここで自刃してしまったと伝えられています。ここにその11人を葬り、十一 面観音の像を建ててその霊を弔った。この十一人塚の前にでた。

このほかに月1回は雨乞いの池を歩いて七里ガ浜のクリニックに通っている。この雨乞いの池に関する記録は金洗沢に建てられたた碑文にある、

「古称金洗沢は此の池辺なり 文永八年(1271)六月 天大いに旱す 幕府 良観房忍性 (にんしょう)に命じて雨請の修法をなさしむ顕(あらわれ)なし 時に日蓮此の池畔に雨を祈る 忽ち(たちまち)甘雨地を潤(うるお)すという  世に伝えて日蓮上人祈雨の霊跡となすは此の地なり。」

鎌倉山から稲村ケ崎に向かうには極楽寺方面には下らず尾根を真っ直ぐ稲村ケ崎に向かう尾根道はこの山道は土砂崩れで閉鎖していた。


April 11, 2007

Rev. April 19, 2021


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