パリ、シャンパーニュ、ブルゴーニュの旅

第5日

サン・ドニ・バシリカ聖堂、オルセー美術館

6月10日(金)、パリ市内観光

パリ最後の日は、サン・ドニ・バシリカ聖堂を訪れた。バシリカとは司教座を意味するカテドラルとは異なり、ローマのサン・ピエトロ・バシリカのようにローマ法王庁が特別に与える栄誉称号だそうだ。パリの歴史の黎明期からある古い聖堂であり、歴代の王の墓所となっている。

サン・ドニ・バシリカ聖堂

革命で処刑されたフランス最後の王と皇后であるマリーアントワネットとルイXVIII世も葬られているが、 フランスにフォーク、アイスクリームとバレーをもたらした功労者カテリーナ・ディ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシス)とアンリII世の墓は盛装のものと殆ど裸体のものが二つある。カテリーナ・ディ・メディチが特別注文で作 らせてOKしたものという。

彼女がかかわったのでは疑われた義兄の 暗殺事件によって図らずも夫が王位を継承した。彼の美貌の家庭教師であり愛人であり、カテリーナ・ディ・メディチの従姉妹でもあったディアーヌ・ド・ポワ チエへの愛に悩みながらも夫を支えて行った。子供が生れた後は徐々に王妃としての風格も備わっていった。1559年の馬上槍試合でのアンリ2世の事故死後 は ディアーヌを追放し若き息子の摂政として政治手腕を発揮した。伯父のためにマキャヴェッリが書いた「君主論」をおそらく読んでいたとされる。国内でカル ヴァンの影響を受けた改革派(新教徒)とカトリック教徒の争いが激しくなり、彼女は融和に務めようとしたが、1572年にパリでサン・バルテルミの虐殺が 発生した。

カテリーナ・ディ・メディチとアンリII世

ロワール河の橋の上に建てたシュノンソー城はカテリーナ・ディ・メディチが建てたものである。アンリII世の父フランソワ1世はロワール河沿いのシャンボール城にレオナルド・ダビンチを招いてダブルへリックス階段を設計させた。

地下のクリプトにはこの聖堂の名前の主、聖ドニの墓があるとか、発掘した跡を見学できる。サン・ドニ界隈は移民が多く、2015年のISのテロリストの潜伏場所となった。

クリプト

サン・ドニ・バシリカ聖堂の後は、メトロを乗り継いでオルセー美術館を訪れた。 オルセー美術館はかってのターミナル駅舎を改装して使っている。ヨーロッパの駅独特のガラス張りのカマボコ屋根が雄大な空間を作っている。ここの5階のテラスで昼食とする。テラスからはセーヌ河対岸のルーブル宮と遠くにサクレ・クール聖堂が見える。

オルセー美術館

時間も限られているためクリムト、ボナ−ル、ムンクの絵を重点的に観る。グリーンウッド氏が好きなボナールの絵はここには展示されていない。 ここに収集されているものは暗く、あまり好きになれなかった。セーリング愛好者としてはポン=タヴェン派の画廊でテオ・ファン・レイセルベルヘの「舵を取る男」を初めて見て気に入った。

オルセー美術館館内

舵を取る男

セーヌ河岸とオルセー美術館

残りの時間はゆっくりとセーヌ川岸を散策し、シャンゼリゼのスーパーのモノプリで夕食の素材や飲みのもを買ってホテルに帰る。

第5日のコース

エトワール駅、M2、プラス・ド・クリシー駅、M13、バシリク・ド・サンドニ駅、メロビング朝のクロビス王以降の歴代王の墓所であるサン・ドニ聖堂、 バシリク・ド・サンドニ駅、M13、アンヴァリッド駅、オルセー美術館、ソルフェリーノ橋、シャンゼリゼ、スーパーのモノプリ、ビクトルユーゴ通りホテル・デュ・ボア泊

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July 10, 2005

 Rev.  January 8, 2016


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