以下は押川氏が千代田OB会会報に依頼されて書いた一文である。氏の許可を得て転載。


ルート66事件簿

押川士郎


はじめに

足掛け12年をかけて、アメリカの「Mother Road」と言われるルート66を主に中西部をハーレーダビットソンのバイク仲間と走ってきた。2000年(12人参加)、2008年(7人参加)、 2012年(5人参加)の三度に亘り、3区間に分け、合計33日間を掛けて、最終的には2012年の遠征で完走した。

全ての行程中幸いにも人身事故は皆無であったが、勿論順風満帆の旅ではなかった。

恥ずかしながら無知と間抜けな行為により、あるいは不可抗力による幾つかの「事件」は発生した。これらのハプニングを事件簿としてその一部紹介したい。

千代田卒業後何故かルート66をハーレーに跨り走ってみたいという想いが無性に募り始めた。OBである青木一三さんなどのバイク仲間(千代田OBは私と青 木さんのみ)に話した所、大賛成された。それからというもの遠征計画作成と実行の世話役をする羽目になってしまった。

レンタルバイクは当然全車ハーレーとし、その予約や行程計画は全て手作りであった。尚その他のホテル・航空券・レンタカーの予約はアローヘッドインターナ ショナル社(千代田子会社)にお世話になった。

勿論R66だけを走ったわけでない。到着空港や、レンタルバイク店の場所などの制約、又折角だから足を伸ばそうとして寄った所も多々あり、ために全走行距 離合計は約6,430kmとなってしまった。

因みにR66の全長は起点シカゴから終点サンタモニカまでの3,940kmである。



カリフォルニア、モハ―ビ砂漠、アンボイ手前のルート66 遥か往く手に海岸山脈が見える



事件簿紹介

1.キングマンのハ―レ―盗難事件

正に一次遠征のツーリング初日に早速事件は起きた。初めての米国ツーリングだからと心配症の仲間が自社のロス駐在社員マイケル氏を社命でサ ポートカーの運転手として同行させていた。早朝ラスベガスのカジノホテルから南下しフーバーダムで社会見学し、キングマンまでバイクの交互走行の制限を外 し、各自の力量で快適走行の指示を出した。アドレナリンが出っぱなしの仲間は非常にハイ状態でキングマンのレストランへ到着。先行バイクの引率で全車レス トラン裏の空いている駐車場へ、日本では何時もしている集団駐車のための配慮であった。この当たり前の引率が事件の一因になるとは誰も知る由はなかった。 アメリカでは当たり前である「人気のない駐車場は、この国では、犯罪の巣である」という言葉は忘却の彼方であった。

そのまま何時もの通り、日本流にエンジン又はハンドルロックのみを掛けて昼食へ。

一時間後に駐車場に戻ってくると一台バイクが足りない。

マイケルが早速店の電話を借り911へ連絡、間もなく警官が一人パトカーで到着。仲間皆でワイワイと陽気で他人事のような能天気な状況説明をし、警官から キングマン警察署発行の事件番号付きの盗難証明書を受領。「盗まれているのに何でこんなに陽気なの?」と警官に質問される程仲間は明るかった。

何故かって?全車盗難保険に加入していたからだ。この盗難証明書でノープロブレム!

その夜の食後、レンタルバイク契約書のTerms & Conditionsを念のため青木さんが精読して見ると、「車輪にチェーンロック(各車 に持たされている)を掛けること」が保険有効の条件と判明。契約時か出発前に読むべきであったが、後の祭り。盗まれた本人は勿論のこと全員大変な落ち込み様、感情の振幅が余りにも大きい初日であった。

サンフランシスコでのバイク返却に当たり、レンタルバイク会社の本社マネジャーと電話会議で弁償金のネゴをした。盗難バイクは言い値で15,000ドル!(当 時の為替は108円/ ドル)吹っかけられていると感じた私は更にかけあい13,000ドルへ値切った。もめていたら予定通り明日帰国出来ないので、これで合意した。ネゴの根拠はレ ンタル会社が売っている中古ハーレーのカタログ値段が「激安プライス」とあったのを逆手に取った。昔プロジェクトでアメリカのベンダーに鍛えられたネゴ力 が少しは役立ったのかと・・・。


2.ピーチスプリングの逆走160km事件

ツーリング初日の事件は第二幕があった。盗難事件の後でさえも、落胆どころか私を含め仲間は高揚したままであった。キングマンから西へオートマン〜ニード ルスを目指す予定であった。昼食後南へ向かいR66との交差点に出た。北から南に向いて来た車は右折すれば西へ、左折すれば東へ、地球上どこでも常識であ る。所が運転手マイケルと助手席に私が乗った先導サポート車は、何の迷いもなく左折し、皆を誘導した。全員興奮状態で、判断力が皆無になっていた。走って いる方向は気にしてない様である。当然西に向かっていると信じていた。間違いを指摘する者もいない。これから向かうオートマンホテルは、クラークゲイブル がハリウッドから隠れて、新婚旅行で泊まった部屋がベッドと共に展示されているなどと、無線でいい気になって仲間に解説している。

一時間ほど快適な走行を楽しむ、が車の影が目の前に伸び始めている。太陽が常に背中に有るのだ。

おかしい、原始的天測によれば明らかに東に向かっている、間違いに気が付くが、道を尋ねる車も民家も人も全く見当たらない。すぐに引き返す勇気もなく、と にかく人にたずねて現在位置を確認したかった。アリゾナ特有の大乾燥地帯のど真ん中で、不安な走行を更に30分程続けざるを得なかった。やっと道路沿いに 民家と食堂を発見。尋ねるとここはピーチスプリング(キングマンの東80km)、ニードルスは真逆方向だから今来た道を戻れという。ああ何ということか。

地元?のマイケルと計画者の私も同じ先導車にいたにもかかわらず、往復約160kmのロスだ。何もかも全て初体験のバイク走行ができたので、誰一人ナビ ゲーターの私達を非難しない。夕暮れと高地(ここは海抜1,440m、キングマンは1,000m)なので寒い。バイク組は雨合羽を着こみ、寒さと逆光に耐え、 間違いなく西へ、ガス切れを心配しながら走行。途中小さなGSで給油。

すっかり日は落ちて遥か西方の天空は、広大な闇夜に無数にちりばめられた宝石と共に、沈黙している。また地平線上のキングマンの街明かりが敷詰められた金 銀の延べ棒の様に発光していた。

間抜けを仕出かした悔しさは、この一幅の絵画で何処かへ消散した。

ガソリンを満タンにし、チョコレートバーを口に入れた我々はキングマンの先ニードルスのモーテルへ向かった。夜間走行しない計画であったが、どうしようも ない。3時間ほど遅れているために、行きそこなったオートマンは次回に譲り、I-40(インターステート道路)を使う。

高速で追い抜いて行くコンボイの恐ろしい風圧に(入れ)歯を食い縛り、先導車の後ろに、しっかりと一列等間隔走行で、全員無事到着。

不味いと言われる典型的アメリカ料理、今日は実に美味かった。やっと食後に仲間の一人から私たちの無思考な道案内に皮肉が出た。これで私は仲間に謝ること が出来た。


3.モントレー集団迷子事件

 無事R66の終点サンタモニカに着き1泊、次の日からは太平洋沿いに北上し中間地点の風光明媚なモロベイで1泊、サンフランシスコを目指す。最後の走行 である。

何時もの通り朝7時起床の8時出発。本日の走行概要を話す。途中の休憩場所のランドマークとしてモントレーベイ水族館に立ち寄ることは私から連絡し、マイ ケル以外皆分かっている筈。青木さんとマイケルはサポート車に乗り、経路はビッグサー〜モントレー〜シスコ(390km、直行すれば5時間)である。他の 楽な道もあるが、選んだ州道1号線(カブリロ・ハイウエイ)は抜群の景勝道路であり、海風を頬に感じながら走れるところだ。一方太平洋に落ち込んだ断崖を 切り開いた曲がりくねった道は、バイクの腕を上げるためには格好なトレーニングと考えた。

かつては新婚旅行の定番道路、延々160km程連なるこのビッグサー経由サンフランシスコ行きは譲れない。制限速度は55km/h、十分安全な速度であ る。

心はやる仲間には、ガードレールが殆どないこの道で何人も亡くなっていると諫めてある。(Google Streetで見てください)
しかしバイクの天敵である砂と砂利が予想外に散見された。工事中の所はダートになっていて、滑って転倒する仲間がでた。休憩を取りつつ慎重に成らざるを得 なかった。

ライダーのストレスは如何ばかりか。緊張の160kmを無事終わり、モントレーの手前カーメルに入ると道はやっと広く平坦となり、ストレス発散とばかりに バイク6台が勝手に先行して、遂にサポート車と無線が上手く取れなくなる。

私のバイクは先行6台と最後尾となった母船サポートカーの間に位置して、無線連絡可能距離を保持しようとしたが、無駄であった。サポート車にはマイケルと 青木さんが乗っているので、ほっといても心配はいらないと判断した。先行した暴走6台のバイクを必死に追いかけることにした。1号線を降りたら直ぐに有名 な17マイルドライブの入口ゲート行ってみるが(ゲートにはバイク走行禁止の看板があった!)、仲間はいない。

土地勘も無く、道路標識の理解も怪しいが、バイクの腕だけはかなりの自信家の仲間たちは、一体全体何処へ行ったのだろうか。絶対に見つけなければならな い。出口付近に見当たらないので、そのままモントレーの市街地、水族館方面へと約5kmバイクを進める。途中BMWのバイクに乗った2人の若者にハーレー の集団を見なかったかと尋ねてみるが、会ってないという。震えるほどの不安を抱え更にバイクを進める。森を通り抜け、街に出てすぐ、右手シェルのGSにバ イク6台と仲間を無事発見。

どうしたものかと人待ち顔で座り込んでいる。何たる幸運!しばらく再会の歓喜を味わうが、さて現実問題これからどうするか?

むやみにサポート車を追っても土地勘のないこの団体走行では危険であり、諦めた。

まずはカリフォルニアの地図をGS前のセーフウエイで入手、ホテルまでの主な州道と国道の番号と地名を頭に叩き込む。州道1号から156号更にI-101 に乗ってNORTHを目指せば、サンノゼ経由サンフランシスコ国際空港となる。空港からは先は昔の土地勘があると仲間に説明し、少し不安を払拭してもらっ た。

一方青木さんが朝のミ―ティングの話を忘れていなければ、この先3kmの水族館でサポート車が待っている筈、しかし行ってみるが見当たらず。

再度無線と携帯電話で仲間を呼び出すが連絡とれず。万事休す。

無事にホテルまで連れて行かねばならない暗黙の責任が、急に重くのしかかる。

この騒動で何もお腹に入れてない皆は腹ペコだという。近くのオーシャンビューのアメリカンダイナーの店で大きな丸いパンに入ったクラムチャウダーを頂く。

時間もロスしたため、早く出発したい。食事をコーラーで流し込む。

幾つもの分岐点がある道路では、標識を理解しながら進む、だから先導車の私の前を絶対に先行しないことを約束して貰った。残す距離は200km。私とて土 地勘がある訳ではないが、千代田のお陰で多少の英語は解るし、JOBで何回かサンフランシスコを訪れているので何とかなる。いざ出発!

頭に入れた通りの道を走れるか、緊張の連続であった。日航ホテルに辿り着けなければ、途中のモーテルで泊まればいいと考えることで、少しは気が楽になる。 このルートは道路沿いに休憩所が無い、ショッピングモールの見える何処かの出口で降りて、トイレに行く事にした。しかしモールと思って入った所が大きな会 社であった。先に建物に入った仲間たちが直ぐに引き返してくる。いくら緊急避難とて、大の日本人7人もが立ションしたら、明日のローカル紙に載ってしま う。

慌てた私は受付の女性に事情を説明すると、快くトイレまで案内してくれた。優しく笑顔の可愛いご婦人であった。

サンノゼを過ぎると薄暗くなり始め、渋滞が始まった。道路標識が暗くてハッキリ読めない。混んでくるとバイク7台が一団となって、走行するのはなかなか難 しい。当然車の脇をすり抜ける走行は禁止している。のろのろの運転はバイカーに取って苦痛だ。案の定先行するものが出た。迷っても探しに行けないからと、 無線でいさめながら走行。

見覚えのある国際空港を右手に確認すると、あと一息である。I-101をダウンタウンで降りユニオンスクエアへ向かう。降りた街中も帰宅の車で大渋滞であ る。渋滞で並行している地元のドライバーに何度も道を尋ねながら、信号と一方通行に行く手を阻まれながら、進む事20分程か。

先にホテルに着いたサポート車の青木さんらの仲間と、無線が取れ始めてきた。心配してホテルの高い所から無線で時々呼びかけていたとのこと。何とか全バイ クはユニオンスクエアに到着、2ブロックほどで日航ホテルである。心配して首を長くして待っていた仲間は皆玄関に出ている。凱旋するような、感激の再会で あった。なんで水族館に立ち寄らず、携帯電話にも出なかったかと青木さんに質問すると、失念していたという返事であった。この興奮旅行の一番の敵は時々平 常心を何処かに置き忘れることか。

不思議に疲労感は無かった。しかし二度目の経験はご免こうむりたい。

その夜はホテル近くの「一輪」(今は無い)という店で日本食と美酒を堪能した。


終わりに

本当はまだまだ事件簿は続きます。例えば

ダラス国際空港別室ご案内事件」、
シカゴのサポート車盗難?いやレッカーRELOCATION事件」、
アマリロのバイクパンク事件」、
ヒューストンのパスポート紛失深夜のお届け事件」(ここではOB の小野功さんご夫婦に大変お世話になった)、
ポンティアックとレバノ ンでの連日の迷子とカーナビ派対道路標識派の対決事件」(因みにレンタカーのナビの登録商標は「Never Lost」でした)、
「フラッグスタッフのパトカー警察官のお目こぼし 事件」、
冷房の街ヒューストンショッピングセンター頻尿事件」、
ダラス有料道路ゲート集団突破事件

などなど、遠征中仕出かし た我々が主役の事件は際限が無さそうです。

本当のルート66の魅力は見捨てられた街道や忘却の街へのノスタルジーとミシガン湖畔の摩天楼からオザークの緑の丘、大草原地帯、すさまじい大乾燥地帯か ら幾つもの砂漠や山々、アメリカ大陸の分水嶺をへて、太平洋に輝くサンセットの街サンタモニカまで移り往く壮大な自然にあるのかも知れません。60〜80 年前まで栄えていた街道筋の現状を見れば時の残酷さを感じ、行けども行けどもの大地を走ってみて人間の小ささを再確認した旅でした。

頬に当たる風は何の匂いもなく、何の音も耳に入らず、さわやかに抱いてくれているような時を感じながら、ゆったりと走行したような気がします。

大自然もさることながら、出会った多くの人々の優しさと微笑を今も忘れない。
 
終わり


押川さんから「シカゴのサポート車盗難?いやレッカー RELOCATION事件」について後日談が伝えられた。

July 29, 2015のNBC newsの 「chicago towing company accused of moving cars to illegal spots」という記事に「Rendered Services」という違反駐車をレッカーするシカゴ最大手が合法場所に駐車してある車をわざわざ不法駐車場所へ移動し、そこからレッカーして、 $218 をボッタ食ってたというもの。警察が犯罪行為として立件中とか。2012年に我々はこれに苦しめられたというわけ。我々は正規の駐車券を買っ たが、ダッシュボートにそれを置かなかったので文句も言えなかったが仮置き場はやけに遠かったのを覚えている。仮置き場の女管理人も西部劇にでてくるよう なガサツなババァだった。これで3年間善良なシカゴ市民をボッタ食っていたわけだ。

October 10, 2015
Rev. May 24, 2016

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