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772

フビライの南海貿易

2003/12/17

モンゴル帝国第5代のフビライ(1279 -1368)は今の北京の地に大都をおき、中国式の中央集権の政治体制を導入し、元の初代皇帝になった。シルクロードだけでなく、海路も開拓するために南 宋を攻略して南海貿易に乗り出し、混一彊理歴代国都之図を作成した。この世界地図は失われたがユーラシア大陸はむろんアフリカまでカバーしてる。この写し と思われる地図が天草の寺に残されている。

フビライは色目人(西域人)を重用し、漢人、南(宋)人は被支配民族であった。色目人は馬(まー)という姓を名乗り、旧南宋の地で海上貿易に従事し、船で西方との貿易を行なった。フビライは東方にも目を向け鎌倉時代の日本にも2度来襲したが2度とも鎌倉幕府によって退けられた。

マルコポーロがフビライ時代に大都を訪問し、中国の豊かさを東方見聞録に書き、後にコロンブス(1451-1506)の西向きの航海の強い動機を喚起することになる。

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元が内紛で滅び、中国大陸の初めての南方民族の王朝、明(1368-1644)という漢民族の王朝を再興した。永楽帝はフビライを尊敬して南海貿易(朝貢貿易)を鄭和(ていわ)宦 官という宦官にさせた。鄭和はもと馬和といったが、フビライの経済官僚サイイド・アッジャルの子孫といわれる。鄭和は1405-1433年に7回大船団を 東アフリカまで送り、朝貢貿易を行なった。しかし、中央集権という政治体制のため宮廷上層部の政争により政策が180度転回し、海禁という鎖国政策に変わ り、大型船建造技術も失われた。

鄭和が世界一周したという説さえある。

足利義満時代の1404年から1551年の朝貢貿易としての勘合貿易も断続されながらも行なわれたのも鄭和時代である。しかし後の明の鎖国政策への転換の 結果として密貿易が倭寇という形で現れ、1522年より40年間がもっともはげしかった。1567年明が海禁令を解除し、秀吉(1536-1598)が権 力を握ってから猛威を振るった倭寇も沈静化した。

プトレマイオス図は混一彊理歴代国都之図の先行地図である。

Rev. December 16, 2013

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