読書録

シリアル番号 613

書名

クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道

著者

杉山正明

出版社

朝日新聞社

ジャンル

歴史

発行日

1995/4/25第1刷

購入日

2003/12/22

評価

鎌倉図書館蔵。

鎌倉時代の元寇を日本に送ったクビライは陸経路だけでなく海上の通商路を開拓する野望を持っていたとNHK−TV番組で知り、この本を借りる。

日本の元寇、中国の元曲、ロシアの「タルタルのくびき」、ヨーロッパの黄禍論はモンゴル帝国に正しい認識ではない。実はクビライは遊牧世界、農耕世界、海洋世界を合体させてユーラシアにモンゴル・リベラリズムとパックス・タタリカ(パックス・モンゴリカ)をもたらしたという説を杉山氏は展開する。

クビライはクリルタイで選ばれた正統の大カアンではなかったため銀で帝位を維持する必要があった。そのための陸路と海路のバランス良い交易と3.3%の売上税による収入が必要であった。そのためにアフマド、サイイド・アッジャル、アリー・ベグなどを筆頭とするムスリム官僚に交易をさせた。たとえばイランから回回青(かいかいせい)というコバルト顔料を輸入して青花(ちんほあ)という磁器を作り輸出した。そして征服した中華帝国の膨大な軍隊、官僚体制、徴税機構としての地方組織、人事の中央管理をする中央機構と巨大首都を採用した。降伏した南宋の軍も官僚組織もそのまま温存させた。この点と交易ルートを整備したところはローマ帝国に似る。ロックを持つ大運河を掘削したことはローマもしなかった。

南宋の城を攻略するためには回回砲と呼ばれた投石器(ペルシャ語でマンジャニーク、ギリシア語でメカニコスといわれ、英語のメカニック、マシーンの語源)が決定打になった。

唐の時代からアラビア商人は広州にきており、クビライ時代の南宋の泉州の市舶司(関税機関)長官の蒲寿庚(ほじゅこう)やその子のも住み着いたアラビア商人の一人であった。こういうアラビア商人がクビライの南海貿易に従事した。マルコポーロが帰路に採用したのは海路であった。第二回の日本遠征のため(弘安合戦)江南の地から出撃した艦隊は蒲寿庚が中心となって編成したものだった。

このように成功したモンゴル帝国も1310年ころはじまった70年に渡る地球規模の異常気象で滅んだ。1346年からはヨーロッパに黒死病が襲う。W・H・マクニール氏によるモンゴルはその成功の原因すなわちその馬による流通経路で広まったネズミの移動にともなう黒死病で衰退したとの説も紹介されている。

明朝の永楽帝はクビライを尊敬し模倣しサイイド・アッジャルの子孫の鄭和を艦隊司令官に任命した。しかし永楽帝の後継者は海禁にはしり、万里の長城を築いて内向きとなり、マルコポーロの「百万の書」(東方見聞録)に啓発されたコロンブスが居た西洋に遅れをとった。


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