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551

ベートーベンの恋人

2001/8/26

ベートーベンは1812年、テプリッツェで今に残るついに発送されなかった「不滅の恋人」宛ての恋文をのこしている。相手の名前は記していない。ここであまたの論争が生じている。

1994年の米映画「不滅の愛  ベートーベン」では恋文の相手はヨハンナといい、ベートーベンの弟の妻であったとされる。ベートーベンが弟の死後、弟の息子を養子にした。この事実から映画のシナリオライターはこの子は実はベートーベンとヨハンナの間にできた子と推定したようである。

恋文の相手の候補としてベートーベンがピアノを教えたエステルハージ伯爵の娘アルメリア(23歳)も上げられている。エステルハージ伯爵は1810年フランス革命でパリからウィーンに逃れた亡命貴族。

しかしベートーベン研究者の最新の研究結果を紹介したNHK-BSによればベートーベンのアントニア(アントニエ)・ブルンターノであるという。エンカルタによれば この結論は1977年にアメリカの音楽学者メイナード・ソロモンの研究結果だそうである。

アントニアはウィーンの大富豪のフランツの妻で4人の子供の母であった。銀行業に忙しい夫に不満を抱いていたアントニア(30歳)は1810年、彼女が開催した演奏会に独身のベートベン(40歳)を招いたのが初対面であったという。気の病に取り付かれた彼女をなぐさめるため、ベートーベンはしばしば彼女の館を訪れ、ピアノを演奏して静かに帰ったという。

1812年6月29日、二人はプラハで2日間一緒に過ごしている。分かれたベートーベンはボヘミアの北端のテプリッツェ(Teplice)に行き、ここで「不滅の恋人」あての恋文を書いている。アントニアは恋文にKとだけ書かれている温泉保養地カーロヴィー・ヴァリ(Karlovy Vary)にいた。ベートーベンはカルロイ・ヴァリでアントニアに合流。夫のフランツはことここに至ってはやむをえないと寛大な処置をしたという。

二人はボヘミアの西のはずれの温泉保養地フランチスコビイ・ラジエ(Frantiskovy Lazie)に行き、1ヶ月滞在した。しかし、アントニアは夫のもとに戻り、死ぬまで連れ添ったという。アントニアは北モラビアのハラベツの出身。

1812年に作曲された第八交響曲にはアントニアの印象が入っていると推定される。

1812年秋、ベートーベンはウィーンに帰るが、苦悩を記した日記を残している。以後5年間作曲活動は途絶える。1817年にソナタ「ハンマークラビア」でカンバックし第九交響曲に至る。

1821年に作曲したピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110をベートーベンはアントニア・ブルンターノに献呈するつもりだと出版社宛の手紙に触れているそうだ。ただ出版された楽譜に献呈者は記されていない。「ジャン・クリストフ」の作家ロマン・ロランもこの曲はベートーベンが聖家族とよんだブレンターノ一家への思い出が生んだソナタだと指摘しているそうだ。3楽章構成の最終楽章に、絶望感に満たされた”嘆きの歌”を置き、精神の復活を示すフーガへと結びつけるあたりにこの曲の謎が込められているという。鎌倉芸術館での上杉春雄氏の演奏はベートーベンの感情をそのまま表現していてよかった。

ベートーベンは失恋の14年後、57歳で死す。

Rev. December 11, 2005


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