読書録

シリアル番号 612

書名

フォン・ノイマンの生涯

著者

ノーマン・マクレイ

出版社

朝日新聞社

ジャンル

伝記

発行日

1998/9/25第1刷

購入日

2003/12/22

評価

鎌倉図書館蔵。

第一次大戦後のブタペストの裕福なユダヤ系の銀行家の息子として生まれ、幼児期によい教育を受け、量子力学の確立に数学の面から支援し、ナチを逃れて米国に渡り、長崎型プルトニウム原爆(ファットマン)の爆縮計算を担当、現代のプログラム内臓のフォン・ノイマン型計算機の概念の確立に貢献し、ゲームの理論を創始し、ガンで早世した天才数学者の伝記。

なぜ第一次大戦後のブタペストに天才に近い人材が大勢でたか、については当時のブタペストはまだ封建制にあったが、貴族と農民はブタペストに商人階級が生まれたことには利害関係を持たず、自由にさせたので有能なユダヤ人がこの街にあつまり、教育制度が完備していたため、人材が輩出した。ナチがでてきてこの人々が殆ど米国に移住したので米国は知的人材をただでもらうことになった。

プリンストンの高等研究所はすごい頭脳を集めたが、学生に講義する義務も、管理などの雑務もなく刺激がないのでたいした成果はあげられなかった。1990年に60周年を祝ったときの成果として

(1)連続体問題に関するゲーデルの仕事
(2)1957年のノーベル賞に輝いた楊振寧(やんちぇにん)と李政道(りーつんたお)の仕事
(3)フォン・ノイマンの計算機

の3つしかない。ファインマンは招聘を断っている。

原子爆弾の仕組みはハンガリー人のレオ・シラードが1933年9月ロンドン・ブルームスベリーの通りを横切ろうとして思いついた。1932年ケンブリッジのチャドウィックが中性子を発見していて、これを原子核にぶつけたら2個以上の中性子がでてくれば連鎖反応を起こせるのではというアイディアである。1934年ローマのエンリコ・フェルミが手当たり次第に中性子を手近な物質にあててウランが超ウラン元素に変わったと発表し、ノーベル賞をうけるがこれがじつは後で核分裂したと判明する。こうしてニューメキシコ州・ロスアラモスのメサの上のランチ・スクールを接収した研究所に集まって原爆開発が行なわれた。フォン・ノイマン、エンリコ・フェルミ、ファインマンなどが50才代でガンで死んだのも放射能のためとされている。

冷戦時代の核と大陸間弾道ミサイルによる抑止力戦略をリードしたのもノイマンだった。


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