読書録

シリアル番号 1273

書名

教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化

著者

竹内洋

出版社

中央公論新社

ジャンル

哲学・思想

発行日

2003/7/25初版
2003/8/15再版

購入日

2016/04/05

評価



鎌倉図書館蔵

竹内洋の「学問の下流化」は2009年にSKに勧められて読んだ。鎌倉図書館でみつけた本書はこれより早く書かれたようだ。

良き時代に諏訪の農家出身の岩波が一高でうろうろしているころ、夏目漱石の知遇をえて「こころ」の出版に成功し、書店経営者として成功し、教養主義を支える出版業を作った。

大正時代の教養主義は皮肉にも象徴的暴力空間を生んだ。阿部次郎の「三太郎の日記」に

独創を誇るは多くの場合において最も悪しき意味に於ける無学者の一人よがりである。・・・独創を急ぐは発表にのみ生きる者の卑しさである

これは言葉による暴力である。そして日本の文系が持っている人々を萎縮させるとんでもない思想だ。教養主義のイデオローグ 和辻哲郎はもっとひどい。小 さな創作に精出し、能動的なかかわりがないと寂しくてならないという青年に「君は自己を培って行く道を知らないのだ。大きい創作を残すためには自己を大き く育てなくてはならない。君が能動的と名づけた小さな誇りを捨てたまえ。・・・世界には百度読み返しても読み足りないほどの傑作がある。そういう物の前に 膝まづくことを覚えたまえ」

このような思想に押さえつけられた学生はマルクス主義に傾倒したが国家主義の脅威となるとして官憲に弾圧された。弾圧されてマルクス主義はつぶれたが、昭和になってその空間に教養主義は復活する。ただマルクス主義は隠れて信奉された。

岩波文化における翻訳文化偏重は官学アカデミズムのヒエラルキーとも共振していた。最も威信の高いのは欧米の研究紹介で、帝大教授を中心とした官学教授がにない、日本についての研究は「蟷螂の斧」か「陳腐」な紛い物とされ、私学の教授がおこなうというすみわけがあった。

ここに原発大国の日本とフランスのエリート校の学生の出身階層の統計がある。

1848-79年のフランスのエコール・ノルマル・シューペリウールの学生の出身階級は文系のほうが高く、理系のほうが低い。ところが日本の 1935年の帝大の学生の出身階級は理学部のほうが文学部より高い。更にこれに追い打ちをかけたのは1960年から文系学生で多量の学生を集めて多量生産す るマス教育になる。

とある。これと私の日本のリーダー層の構成に関する発見と関係がないとは言えない。

教養主義は農村と都市の、そして西洋と日本の文化格差が駆動力だった。この格差が失われれば教養主義も崩壊する。 1970年のオリンピックを境に文系大卒が事務職、技術職ではなく、ス−パーマーケットや不動産の販売職に就職するようになった。この文系のマス教育の結果生じた現象がマルクス主義への傾倒と教養主義派排除の動きだ。

マルクス主義への傾倒はしかし安保闘争の挫折で再度消え去った。そして教養主義派排除の動きは現在まで継続している。教養主義派排除統一戦線のイ デオローグは石原新太郎とビートタケシ。

「独創を誇るは多くの場合において最も悪しき意味に於ける無学者の一人よがりである」とする大正時代の教養主義の思想に抑え込まれた人間が組織の長になれば、創造性が重要となる世界マーケットでは敗者になるのは必定。

教養主義が日本に於いて覇権を持つに至ったのはハイカラな「山の手階級」がこの教養主義の人々と同じだったからである。官吏の官舎もここにあった。赤坂、 四ッ谷、市ヶ谷、牛込、小石川という西の洪積台地の住人が神田、日本橋などの東の沖積低地にある粋な下町の商人と職人とはちがったからである。山の手を転 々とした田山花袋は「山の手には新しい、不如意勝ちの、明るい若い細君のいる家庭があった」と書いている。しかし下町の商人や職人は独立業種の自負から山 の手の勤め人を「地方人の立身」と蔑視さえした。清元と長唄の区別もできないようでは「通」や「粋」に欠けており田舎者だとさげすんだのである。帝国大学 への志願さえ「役人になるのじゃあるまいし」と周囲からいわれる覚悟がいった。慶応義塾と東京高等小学校だけが進学の許される学校だった。山の手族は江戸 式に対抗するために、ヴァイオリン、オルガン、琴、洋装の生活をした。帝大文学部は必ずしも文化的上層階級の再生産戦略の場とはならなかった。

一般に学歴エリート文化は伝統的な上流階級文化と「融和」して作られるか、「対立」してつくられるかのどちらかである。英国はパブリック・スクールとオッ クス・ブリッジに代表される「融和型」である。ドイツでは貴族はフランス風作法で振る舞い、フランス語を話し、ドイツ語を話す中流階級との間に文化的断絶 があった。結果として「対立型」となり、中流階級は大学を砦に学問や芸術という精神的業績を本領とする精神の貴族として対抗した。日本は日本的融和型とい える。

しかし、大正時代に入り、杉並、目黒、世田谷などの「新山の手」階級が誕生すると、「旧山の手」階級にかなわなくなる。すなわち教養主義はブルジョワ文化 にかなわなくなる。そうするとマックス・ウェーバーがいうドイツの学歴エリートである教養市民層にとって教養の相違は『心の中でもっとも強力に作用する社 会的制約の一つであり』しばしば「成り上がり」と呼ばれた。こうしてマルクス主義的教養主義が地方出身者に象徴的暴力空間を転覆させる戦略となりえたので ある。

大学紛争は教養知の特権的欺瞞性を喧噪のなかで白日の下に晒したが、実は、その前にサラリーマン社会は、テクノクラート型ビジネスマン(経営官僚)像を鏡に専門知(機能的知識人)への転換による教養知(教養人)の無用化を静かに宣言していた。

マックス・ウェーバーによれば社会階級は経済的次元、政治的次元、文化的次元(生活様式)での成層化である。高度成長期をすぎてこの階級が溶解し始めた。 こうしてできた新中間大衆文化はフリードリッヒ・ニーチェのいう畜群(ヘールデ)に該当。あるいはホセ・オルテガ・イ・ガセットの「凡俗に居直る」という 行動になる。

そして今は「教養がある」「キョウヨウ(今日用)がある」という程度しか教養は意味をなさない。

Rev. April 12, 2016

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