読書録

シリアル番号 1251

書名

本能寺の変 431年目の真実

著者

明智憲三郎

出版社

文芸社

ジャンル

歴史

発行日

2013/12/15第1刷
2014/5/20第8刷

購入日

2015/10/28

評価



三浦半島歩き第5ステージの折、友人の加畑氏からいただく。 明智光秀の子孫が書いたことが売りの本とのこと。これは小説ではなく歴史書として書かれている。

この本は姉小路祐の小説より8年後に書かれている。だから正し いということでもないが、参考文献が書かれていてその系譜がしっかりしている。まず初めに、日本の歴史家は文献にないものは無視していながら明智光秀像が 秀吉にとって都合がよいようにゆがめる目的で秀吉が部下に書かせた「粋任退治記」や、やはり部下の川角三郎左衛門に書かせた「川角太閤記」や徳川時代に尾 瀬甫案が書いた「甫案太閤記」などの物語の影響をうけて後の権力者にとって都合の良いストーリーにゆがめられている。

東大史料編纂所の高柳光寿が書いた「明智光秀」などの著書は資料のその選別が甘く、「高柳光寿神話」になっている。「粋任退治記」などの出鱈目を否定するのが山科言継(ときつね)の書いた「言継卿記」にある天候の記述だ。では真相はどうかと謎が解き明かされる。

この本の物語とは

すべては信長が家康を暗殺したいと発想したことにはじまる。そのために光秀を仲間に入れた。信長が丸腰で本能寺にはいって、安土城から 持ってきた茶道具を見に来いと堺見物にでた家康を誘う。そこに光秀が軍を率いて家康を襲うというシナリオだった。しかし光秀は家康が死ねば、土岐氏 の再興を悲願とする光秀の野望が、信長の戦略により長宗我部が滅びることによって無に帰す。これを阻止するのは信長を殺すしかないと光秀が考えたからであるとする。誤 算は秀吉にこの光秀の思惑が見抜かれていたことにあるとする。あまりにはやく秀吉が帰ってきた。織田信長は光秀軍に囲まれたととき「是非もない」といったと伝えれているが、これは「確認す る必要がない」という意味だという。じつはその前に「余は余自ら死を招いたな、是非に及ばず」と言ったらしい。この言葉が残ったのは信長が連れて歩いたアフリカ生まれ の黒人小姓がイエズス会の宣教師達に伝えたからである。信長は「多分、おまえならここを無事に脱せられるかもしれない」と黒人小姓に本能寺を脱し、息子の信忠に「急いで逃げろ」と伝言させたのだ。黒人小姓は信長の読みの通り、妙覚寺→二条御所 に走って信忠に面会できたらしい。しかし信長の思いは信忠には伝わらなかった。信忠は二条御所に立てこもり討ち死にするのだ。

Rev. November 17, 2015


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