湘南桜友会 

娘が語る父城山三郎

井上紀子

2018年4月7日



西沢氏の誘いで学習院大OBの湘南桜友会の講演会に参加した。作家城山三郎(杉浦英一)の一生を城山氏の次女の井上紀子さんが語るというものだった。井上 紀子さんは湘南桜友会のメンバーでもある。 ノースウエスト・アース・フォーラムの西高からも6名の参加である。聴衆120名のほとんど女性であった。

作家というものがどういうモーティベーションと取材法で小説をかいているのか詳しく聞けた。娘からみていると城山氏は本を読むことと旅をとても大切にして いたという。父親には叱られたこといはないが、してはならないことを自分で発見するように仕向けられたという。自主的に考えて行動することを無言で教えら れたという。本を読めとは言わずに、自分が本屋に出かけるときはなにか買ってほしい本は無いかと聞かれたそうである。思い切って少女マンガ本の名をつぶや くとちゃんと買ってきたという。

祖父は名古屋で自営業を運営していたため長男の城山三郎氏が後を継ぐことを期待したが、本人は学者になった後、作家になったか。その動機は太平洋 戦争の戦局が煮詰まった終戦直前に若気の至りで海軍に志願し、海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり、訓練中に終 戦を迎えた。その訓練とは潜水服を着て海底に隠れて米軍の上陸用舟艇を待ち伏せし、人間水雷になるというものであった。この過酷な成功するとはとても思え ない経験をしたため、人間とななにかという疑問がわき、突然人生の意味はなにかと 悩み始めのが動機になったのではと推察しているという。

作家稼業で必要で集めた本は膨大で、家を何度も増築しても本で一杯になった。仕事場を相模湾が見えるJR茅ケ崎駅前のマンションの10階に移してからは名 古屋の「文化のみち二葉館」に寄贈したという。

奥様は容子様といい、69才の時ガンで亡くなった。城山氏はその後7年生きた。城山さんと親しい評論家佐高信さんは「ふたりは天の配剤だ。城山さんはみず みずしい少年の恋を最後まで貫いた。容子さんがいなければ作家城山三郎はなかったろう」と言い切っているそうです。城山さんに筆一本で生きる決意をさせた のが容子さんだったという。1956年、同人誌に戦争体験を書いた最初の小説『生命の歌』は仲間からは不評だったが、容子さんは「泣けたわ」と言った。 「その一言で、自分の気持ちが固まった」と城山さんは語っているという。

最後の小説『指揮官たちの特攻』は容子さんの死で水上機で特攻した兵士を描く予定だったのをやめ、主人公を変え、残された遺族の哀(かな)し みや消えない後遺症を書き込んだという。

城山さんの死後に未完の原稿を集めたのが『そうか、もう君はいないのか』。井上紀子さんはかなり美形なのでお母さんもかなりきれいだったのだろうと推察し た。

NWEフォーラムへ

April 8, 2018

トッ プページへ