ノースウエスト・アース・フォーラム

川上書簡

4. 紅茶とカレー

インドから西へ、中東一円(ついでながら、中東というのは東経西経零度のグリニッジ天文台の英国を基準とした言い方で、だから日本が極東になるのだが、日本外務省の区分では中東というとき、それはアフガニスタン、イランから西のこと。パキスタン、インドは含まれない)の国ではどこも、市場へ行くと、カレーのもとになる粉の香辛料が何十種類と並んでいる。盆にきれいに富士山型に盛って、何十種類と並んでいるのは、なかなか壮観だ。むろん色はカレー色だが、ひとつひとつ、微妙に違い、濃淡さまざま。あたり漂う香りも心地よい。この地域の香辛料の奥深さを目のあたりにする思いであった。

今、私の唯一の得意料理は、日本でも手に入る12種類ほどの香辛料を使った、粉は使わないトリカレーである.たまねぎを、長時間いためるので、半日がかりだ。

だが、私は、カレーを含めてインドの食べ物をおいしいと思ったことは一度もなかった。カレーが一番おいしかったのは、1972年に南米移動特派員の途次に寄ったニューヨーク、それとカイロ在任中のピラミッド近くのホテルのカレー(余談だが、古風で豪華なこの建物は、1943年、日本の敗戦を見越してルーズベルト、チャーチル、蒋介石が話し合った有名なカイロ会談の会場)だった。今インドを旅する日本人、ことにツアーで行く日本人が短い滞在期間に舌鼓を打つインド料理は、日本の旅行社が指導して日本人寄りに味が調整してあると思う。それでも,「日本メシ屋に連れて行け」と日本人ガイドに要求する旅行者は多いらしい。旅行社も商売、特に弱い立場にある添乗員は、ツアー客サービスに、インスタント・ラーメンどころかそうめんまで用意していくらしい。が、これは欧米旅行でも同じらしいから、あまりインドの食べ物の悪口の材料にはならないかもしれない。だが、インドの食べ物が日本人の口に合わないのはいろんな理由があると思う。そもそも、食べ物がおいしいとかまずいとかいうのは、そのときの本人の年齢、体調、それまでの食生活、その場所の気候、滞在日数そのほかいろんな条件があるから、こういう言い方はインドに対しても失礼だとは思う。

それでもーーーーー。ご存知、ヒンズー教では聖獣である牛の肉にはお目にかかれない。かと言って前々便だったかで触れたように、インドはイスラム教の国でもあるので豚肉もない。羊と鶏ということになる。牛肉と豚肉のない食生活というのはさびしいものだ。インドの粉食のエース、ナンは今では日本の田舎のインド料理屋でもおいしいのがあるが、私が当時食べたインド、パキスタンのナンの多くは油でぎろぎろしていた。果物は種類は豊富とはいいかねたが、それでもおいしかった。生野菜と生水は病気が怖いからもちろん厳禁。日本人が考えるような、西洋料理のレストランは、それらしきものが外国人用のホテルになくはなかったが、パンがまずかった。この人たちは、英国に長年支配されながら、パンの焼き方さえ教わらなかったのか、と私は内心毒づいていた(インドの小麦の質のことはさておいて)。もっともその英国人がまた、ヨーロッパではもっとも食べ物に関心が薄い人たちときている。また余談だが、長年一緒に仕事をした先輩、故筑紫哲也がワシントン特派員から帰ってきて、「米国が荒野を開拓して発展したのは、国の基礎を作った英国人移民が食べ物に関心が薄く、粗食に耐えられたからではないか」と冗談半分にユニークな見方を私に語ったことがあった。その伝でいえば、まだ米国が全土荒野だった時代から英国に支配されたインドの食べ物がおいしくないのも当然か。

余談のまた余談で恐縮ですが、英国と米国の名誉のために言っておかなければなりますまい。後年ジュネーブ、カイロそれぞれの特派員時代、そして定年後も含めると全ヨーロッパを走り回り、相当回数英国に行っているが、英国の食べ物がそうまずいとは思わなかった。また、ニューヨークは言うまでもなく、世界中の料理の一流レストラン(最近では日本料理も一流)が集まっている。「アメリカは食べ物がまずい」という定評もここでは当てはまらない。同時に「ニューヨークを見て、これがアメリカと思ったら大間違い」というのも真実だが。

パキスタンでのわが食生活(だけではないが)いま思い出してもおぞましい。単身赴任に伴う不自由さがあったにしても。半年は酷暑の大都市カラチに唯一の全館冷房のホテル(つまり外国人が泊まれる水準の唯一のホテル。私が滞在したのは別のコロニアル・スタイルの扇風機しかないホテルだった)のレストランでも、ステーキと称して出てくるのは、水牛の肉といわれたにおいの強いしろもので、味はわらじを噛む以下、だった。しょうゆ味が恋しくて、よく中華料理屋には通ったが、これまた日本のしょうゆとは似ても似つかぬもので、しかもイスラム教国だから豚肉なしだ。牛肉といっても前述のとおり。禁酒国だからレストランでもアルコール類はご法度。日本料理屋などは夢の夢。

町外れに、日本人クラブが借りている小さな民家に、日本人のたまり場があった。ここで「うどん」と称するものを食べられた。手動の小さなうどん製造器械からにょろにょろと出てくるのである。しょうゆは日本航空(JAL)がサービスで日本から運んできた(カラチは当時南回り欧州便の要衝であった)。でも、パキスタン人のコック?はだしをとるなんてことは知らないし、なんとも大変な「すうどん」だった。1,2年前まで日本人の中年男性が住んでいてうどんを作っていたのだそうだ。ところが、印パ戦争の際、無線通信機を部屋に隠し持っていたとかで、パキスタン当局からスパイの疑いをかけられ国外追放になってしまい、うどんの作り方を助手のパキスタン人伝授するまもなく姿を消したとのことだった。その結果がこの「すうどん」だった。

(続く)

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March 8, 2010


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