ノースウエスト・アース・フォーラム

川上書簡

1. カラチにて

インド旅行とは、いろいろなアイディアが出てきますね。諸兄の好奇心と知識欲に敬意を覚えます。

小生は、1973−74年の一年数ヶ月、外国特派員としての最初の任地がパキスタンのカラチで、1年あまり滞在しました。ご承知のように、パキスタンは、1947年のインドの英国統治からの独立・印パ分離までは インドの一部でした。

インドのムガール王朝(1526-1857)はイスラム教の王朝でした。チムール5世の孫バーブルがインドを征服して建てた国でした。いわばイスラム教徒がヒンズー教徒を支配した国でした。ムガール王朝の後、インドを支配した英国は、ヒンズー教徒とイスラム教徒の仲の悪さを・対立を最大限に利用して 、統治しました。今日なお、インドはヒンズー教徒の国ですが、11億になんなんとするインド人口の一割強がイスラム教徒です。表立っての宗教紛争はありませんが、イスラム教徒は大統領にはなれない。副大統領のいすがひとつ与えられているだけです。

イスラム教徒の知識人は、イスラム教徒だけが在籍できる大学に進学します。イスラム教徒は minority に甘んじているわけですが、しかし、分母が大きいから、イスラム人口は1億を超えます。これは、インドネシア、パキスタンに次ぐ世界3番目のイスラム人口です。一般にイスラム教国といわれる中東の国々には人口が一億を超える国はありませんから。

さて、英国統治のタガが外れるとき、インド亜大陸のイスラム教徒は「ヒンズー教徒なんかと一緒にやっちゃいられねー」とばかり、イスラム教徒だけの国パキスタンを造ることにしました。パキスタンとは、同国の公用語ウルドゥー語で「清い国」という意味です。場所は、インド亜大陸の中でもイスラム教人口の密だった今のパキスタンを選びました。インド全土の貧しいイスラム教徒が何百万人と難民となってパキスタンを目指し、血で血を洗う民族移動を繰り広げました。これが第一次印パ戦争です。

1973年、小生が赴任したころのカラチは、英国統治時代の田舎の港町がその難民で膨れ上がった、人口一千万人の貧しい、殺伐たる街でした。1971年の第二次印パ戦争の余韻が色濃く残り、人々は「インド憎し」に凝り固まっていました。

イスラム教国であることを除けば、人々の生活すべてがインドと同じであったにもかかわらず、です。

今日,アフガニスタンで米軍に追い詰められたイスラム教原理主義者タリバンのグループが、国境を越えてパキスタン側の広い山岳地帯(もともとパキスタン政府の統治が及んでいない。裁判までイスラム教の長老が支配している tribal areaと呼ばれる)に拠点を設け、これにパキスタン側のイスラム原理グループが呼応し、パキスタン政府が苦慮している。これもパキスタンという国の成り立ちがあってこそのことです。

小生のカラチ在任中、インドとパキスタンは断絶状態で(もっともそれは1947年のパキスタン建国以来ずっとそうだったのですが)New Dehli へは電話も通じず、空路も、PANAM のような外国航空会社の便がわずかにあるだけでした。だが、パキスタン報道に携わりながら、インドを知らないのはいかにも残念という思いが強く,帰国の途次10日ほどインドを旅しました。

(ここまででパソコンの紙数?が尽きましたので、便を新たにして、送ります) 次ぎ

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March 2, 2010


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