ノースウエスト・アース・フォーラム

川上書簡

2. インドの門からベナレスへ

まず、Bombay(現在ムンバイ).。インド北西部の、アラビア海に面した港町にして、インド第一の経済・商業都市。2,3年前、パキスタン系の武装イスラム過激派がこの街のホテルを占拠して銃撃戦を演じ、確か死者が100人を超えた。の港に西方に向かってパリの凱旋門をもっと大きくしたような立派な門が建っている。「インドの門」。英国人が、スエズ運河を通って、あるいはそれ以前は喜望峰をを回って、インドに着いたとき、まずこの門に迎えられるべく自ら建てたもので、いわば英国のインド統治の象徴。この門を、英国への恨みの象徴というわけでもなく、そのまま維持しているところが面白いと、思いました。

New Dehli はご存知英国が作った首都ですが、史跡,建築、あるいはインド民衆の生活を見られるのは、Old Dehli の方です。ごみごみと汚い Old Dehli でインド人と一緒に住むのはまっぴらごめん、かといって改造するのも面倒だったのでしょう。英国人は、隣に新しい街を造ったのです。

そして、Taj Mahal 。壮麗、壮大というには、あまりに純白。ムガール朝の王様がなき王妃のために建てた廟であることもあまりに有名ですが、ともかく小生が世界中でみた建造物(ピラミッド、万里の長城はまた別)の中でもっとも印象的なものでした。支配王朝が極貧のインド民衆の膏血を絞った結果、というようなこともしばし忘れたことでした。

次に、宗教都市 Benares(インド名ワ-ラ―ナシー)。市内には大小1500のヒンズー教寺院と270のモスクがあるといわれる。ここのガンジス河畔では、ヒンズー教徒が人間の遺体を茶色に濁った泥水の河に流している。これを飲み、洗濯に使っている。底知れぬインド人の人生観というべきか。

Calcuttaは、20世紀はじめまで英国が首都としていただけあって、かつては、豪華な街だったことをしのばせるが、小生がおとずれたころは、壮大なスラムだった。路上生活者が路上で煮炊きをし、眠っている現場こそ、路上に転がる遺体こそ現認しなかったが、夜、タクシーでスラムに入っていくと、昼間の余熱で暑い歩道に、目だけぎょろつかせた黒い人間がびっしり座っていて、中にはわがタクシーを取囲んで車窓のガラスやボンネットをたたくものもいて、恐怖に襲われた。小生がこの街について最初に印象を持ったのは、これより十数年前に小田実がハーバード留学の帰りに世界一周の貧乏旅行した旅行記「何でも見てやろう」だった。小生もインドの貧しさに、小田と同じようなショックを受けた。後年ノーベル平和賞を受けたマリア・テレサが貧民の救済に一生献身したのもここだった。

われわれの学生時代、「インド以下的低賃金」という言葉があった。今、インドの  IT 産業の興隆が日本ではしきりに言われる。ウソではないだろう。

だが、インドにしっかりした中産階級が生まれ、底辺の民衆の生活がマシになるには、まだまだ長い時間が必要だろうと小生は思う。今、日の出の勢いの中国についてもまったく同じことが言えると思うが、インドの場合はもっと時間がかかるだろうと思う。第二次大戦直後、「日本は叩き潰した。これからのアジアはインドだ」という考え方がアメリカ政府にあった。その後60数年、歴史を見れば、米国政府などというのが、アジアについていかに無知であるかを示すものだ。米国の無知は、ここでは関係ないが、ベトナム戦争、そしていまイラク戦争、アフガン戦争を見ればわかることだけれど。

インドの民衆の生活水準の低さは、400年あまりにわたる英帝国主義の搾取のせいだというのも、これまたまったくのウソではない。英国のインド搾取は世界経済史上、植民地史上,特記すべきものと思う。英国は西暦1600年の東インド会社設立以来、インドをしゃぶりつくした。英国産業革命を担った英ランカシアの綿工業は、インドからの輸入綿花が原料だった。綿工業に関してそれまで英国よりは水準が高かったはずのインドは単なる綿花供給国に転落し、インドの綿工業は壊滅した。インドの停滞のはじまりであった。

私は、パキスタン、インド経験の後も、特派員として、国際ニュースを扱うジャーナリストとして、ことあるごとに、インド人、パキスタン人の対英感情、反英感情を探ってきたつもりだが、これはまた後述することにしよう。英国に比べれば、日本は満州、朝鮮、台湾で産業を起こし、教育を普及させ、近代法治国家の概念を教えた。しかるにーーーーーーー。

(ここでまた紙数が尽きました。すみません、続きはまた)

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March 2, 2010


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