ノースウエスト・アース・フォーラム

川上私記 回想のアフガニスタン

ペシャワル

   カイバル峠越えのアフガン入りは成らなかった。これを危惧して待たせてあった運転手の車で、往路と同じ道を下って、日暮れのペシャワルの街に入った近代的なホテルは一つもない。街一番のホテルに入ったのだが、英国統治時代の、部屋のドアを出るとそこが庭、いわゆるコロニアル・スタイルである。天井の大きな扇風機がゆるゆると熱気をかき混ぜている。なにはともあれ、朝カラチを飛び出してからはじめての休息だ。だが、シャワーの湯の栓をひねっても何も出てこない。水の栓をひねると熱湯が噴き出した。炎天の屋根の上のタンクで、一日中沸いていたのだろう。バス・タブなどむろんない。

   部屋の外から洗面器で水を汲んできて浴びた。パキスタンはインドが英国から独立したときにできた人工の国で、正式の名前は「パキスタン・イスラム共和国」。当然アルコールはご法度だ。四つの州のうちここ北西辺境州がことのほか厳しい。シンド州のカラチでは飲める場所が幾つかあったし、国産のビールさえ、ヤミではなく、存在した。なにごとにも、建前と本音の間に隙間のあるこの国の在り様にもだいぶ慣れてきていたので、確信を持っていろいろ聞きまわった。そして、当時で唯一と称する秘密バーを探り当てた。私のホテルとは別のとあるホテルの地下の曲がりくねったトンネルの奥にそれはあった。その後長い間、中東のあちこちで酒の入手に苦労したが、あのときの一杯のビールの喉ごしを私は生涯忘れないだろう。

   アフガンの北方の巨人ソ連はすぐにダウドのクーデタによる政権奪取と、新政権を世界に先駆けて承認した。カブール放送でそれを知り、ペシャワルから東京に打電した。クーデタは宮廷内の権力闘争、無血の宮廷革命であった。クーデタの第一報は出発前にカラチから打電してあった。詳報を狙ったカイバル峠超えは成功せず、隔靴掻痒の感は免れなかったが、新聞記者はなるべく現地に近づいて書くのが原則である。

   肌身離さず抱えているポータブルの英文タイプライターで日本語の記事をローマ字で打ち、電報局に持ち込む。ペシャワルの電報局はアルファベットでは打てないのでウルドゥー語の記号でカラチの電報局にまわし、カラチでそれを英語のアルファベットに直し、日本へ打つという。しかも、電報局員が打つのを見ていると、モールス信号を打つような器具を使っている。他に送稿手段はない。首都カラチからさえ日本への電話は通じていなかったのだから。運を天に任せてその場は終わった。数日後カラチへ戻って、日本から送られてきた紙面を見たら、ほぼ正確に掲載されていたので、驚きもし、ホットもした。

   それからちょうど10年後の1983年7月、私は東京からパキスタンに出張した。ひさしぶりの再訪であった。時の大統領ジアウル・ハクとの単独インタビューをした。ハク大統領は、私のパキスタン在任中のブット政権を軍事クーデタで覆し、大統領ズルフィカル・アリ・ブットを政敵謀殺のかどで絞首刑に処していた。そのハク大統領も私が会った数年後に原因不明の飛行機事故で死んだ。( 以下余談だが、そのブットの遺児ベナジル・ブットが1988年イスラム圏初の首相になり、首相在任中の高齢出産で世界に名を馳せた。そして海外亡命8年間、返り咲きを狙って帰国して間もなく、2007年政争の中で,暗殺された)。

  このパキスタン再訪のとき、ペシャワル近郊のアフガン難民キャンプを取材した。ソ連軍の侵攻でアフガンから逃れて流入したアフガン人難民が,荒れ野でテント生活していた。長い国境線沿いにその数300万人とパキスタン当局は言っていた。ペシャワルにも近代的なホテルができていて時の流れを感じさせた。

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March 14, 2010


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