ノースウエスト・アース・フォーラム

川上私記 回想のアフガニスタン

文明の十字路

   アフガニスタンは19世紀から20世紀初頭にかけて三度英国と戦った。英国は植民地インドへのロシア・ソ連の南下圧力を防ぐために、アフガンを緩衝地帯として重視した。当時インドの一部だった現在のパキスタンのアフガンとの国境の州名(ペシャワルもカイバル峠も同州にある)が今なお、英語で North West Frontier 、北西辺境州であるのはその名残である。第二次大戦の英国の救国の英雄大宰相ウィンストン・チャーチルが、あまり学業成績優秀でなかった若い日に受験した英陸軍士官学校の入試問題に、「アフガンの地誌を記せ」というもんだいが出た。彼は帽子の中に潜ませたカンニング・ペーパーで切り抜け、みごと合格したという本人の話をどこかで読んだことがある。英国にとってアフガニスタンは重要な国だったのだ。

   アフガンは英国とゲリラ戦で果敢に戦った。1919年の第三次対英戦争で、英国の保護領を脱し、独立を回復した。以来第二次大戦をはさんで激動の世界をよそに、王政の下で比較的平穏な時代が続いた。ザヒール・シャーは、1933年に暗殺された先代国王のあとを継いで40年間内陸の険しい山国を大過なく治めた。だからこそ安穏にローマ滞在など楽しんでいられたのだが、そこに起きたのがこのクーデターだった。王政崩壊をきっかけに、アフガンは混乱した。1980年代のほぼ10年間、ソ連軍の侵攻で、実質上,ソ連の支配を受けた。

(首都カブールへ続く)

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March 14, 2010


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