日本の教育

2005年暮れ、藤原正彦氏の「国家の品格」という本が評判になった 。氏の本にも出てくる藤原正彦氏の奥様で翻訳家でもある美子(よしこ)さんのお父様、田丸謙二氏が鎌倉ベルの会総会で「八十を越えて思うこと 化学者の立場から」というテーマで講演された。 講演原稿を田丸氏と親しい内田氏からもらって読み、ここに来て破綻した日本の教育問題の根底のところを正しく指摘しているなと目からウロコと思って読ませてもらった。

だいたい藤原正彦氏の主張にはウサンクサイところがあって、一読して気分は良くなるが、必ずしも的を得ていないところがある。それは藤原氏自身感じているらしく、奥さんに厳しく批判されていると公言して毒消ししていることからも察せられる。奥様のお父様の講演録を拝見して、奥様の批判のバックグラウンドにあるものを見た思いがしたのでそのさわりのところを許可をいただいたのでご紹介しよう。

田丸謙二氏は戦後東大理学部化学科を卒業後、プリンストン大に留学した国際派である。そのとき生まれたのが美子さんである。さてアメリカでは15年程まえに知識を詰め込むより探求的な考え方を教えようという教育改革を行い、ヨーロッパ諸国もこれにならった。日本でもこれをまねていわゆる「ゆとり教育」をはじめた。「知識3割減、探求的に考える」としたわけである。しかし欧米 にはeducationという言葉に内包されているように自分で考え、自分の能力を引き出す(educeする)伝統的な下地があったが、残念ながら日本では「マネブ」すなわち真似をするという伝統しかなかった 。故に文部省の「知識3割減」の命令は守られたが、「探求的に考える」習慣も風土もないし、考える教育など受けたこともない先生達ではうまくゆかなかったと田丸謙二氏は指摘するのである。国の将来は現在の教育できまるわけで、まことに由々しき事態に陥っているわけだ。

解決法は簡単で東大に代表される大学の入試を記憶力ではなく、クリエイティビティで選抜すればよい。クリエイティビティは筆記試験では分からない。先生と生徒の対話によってしか判別できない。でもそのような方向にゆかねば日本の将来はないのだ。

これを読んで私は自身の中学生時代の担任の故北村先生を思い出した。先生は詰め込みではなく、質問して考えさせる教育をしてくれた。結果は我々のクラスだけがダントツの北高と西高への進学率であった。先生はクリスチャンであったが信念の人であった。まことに稀有な先生に指導してもらった幸運に謝々である。

今読んでいる、「グーグル誕生」でも検索エンジン開発で世界をリードした創業者の二人ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンは子供の頃、モンテッソーリ学校で学んでいる。私が幼年時代にかよった屋代のキリスト教会経営の幼稚園はモンテッソーリ幼稚園のような雰囲気のところであった。こういう環境を子供に与えないとこれからの日本を背負う人材は出ないのであろうが、議論を好む人間はまわりから見ると「少し嫌なやつ」なので「和を持って尊し」とする日本社会では嫌われる。敏感な若者には自己規制が働いてしまう。しょせん社会はその社会にみあった人を育てるということだろうか?

July 18, 2006


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