第12章 1974年

石油随伴ガスを有効利用する

石油化学プラントコンビナート

企画

 

 

石油化学プラントコンビナートの企画

天然ガスプラント設計課長としてマルチプロジェクトのサービスをしているころ、営業の善畠不士夫 と常畠さんからサウジアラビアの石油随伴ガスを有効利用する石油化学コンビナート企画書を作ってくれと頼まれた。サウジアラビアに 提案書を持って行きたい人から有償のコンサルタント業として頼まれたのだという。サウジアラビアはLPGはともかくLNGにして売ることはしない方針のようであったので引き受けた。課員の一人、善畠道夫を担当者に任命した。1963年当時のピントの外れた提案をするというような失敗は繰り返さないつもりであった。

2-3週間位経って、約束の締め切り1週間前に仕上がり状況をチェックするために善畠道夫に進捗状況を報告させた。全く手がついていない状況であることが判明して愕然とする。自分ならそろそろ形が整うことだと思うことと他人が出来ることは違うのだとこのとき学んだ。

これにはまいった。自分が自ら手がけなければならない。しかし日々の雑用をしていては間に合わない。どこかに会議室を確保して篭ろうと考えた。しかし、空 いている会議室がない。営業に相談すると、赤坂のホテルの1室を確保したからそこを使えという。石油精製プラントの計画ではベテランの小河君を連れて3人 でホテルの部屋に移った。

赤坂はかっての本社のあったところだからなじみの場所だが、設計の本拠は鶴見に移っていた。石油化学などあまり勉強していないからどのような資料を持って いったらいいかわからない。仕事をはじめてから、あれを持ってくればよかったと悔やむのだが、取りに帰るのも時間のロスと全て計算ででっち上げることにし た。

中心となるオレフィンプラントを年産30万トンに決めてあとは上流と下流に向かって頭に入っていた収率と熱効率だけを根拠に物質収支をとり、それぞれのプ ラントサイズをきめ、建設費を推算し、ユーティリティー・ケミカル消費量を推算する。そして必要工場面積を計算してコンビナートの総合配置図を作った。そ してディスカウンテッド・キャッシフロー・アナリシスをし、最後に英文で説明書を書くという作業を1週間でおこなった。

夜10時ころになると酒の匂いをさせた営業の連中が雪崩れ込んで、下着1枚になってソファーで足組みしって寛ぎ始めるので仕事どころではなくなるのには 困った。一物が丸見えとなり我々は目のやりどころにこまったものである。着替えがなくなって、外に買い物に出たのはよかったが、当時の赤坂界隈には下着を 売っている店はなく、ようやくパンツ1枚買えたという思い出がある。

営業の連中はここでサウジ国王への提案書のドラフトを書き上げるのだった。まあこうして窮地を脱したのであるが、後日、これはMグループのダーランの1大コンプレックスになって結実することになる。

このときのお情け程度のコンサルティングフィーは当時出回りはじめたデスクトップ・カルキュレーターに化けた。 (ポケット・カルキュレーターの商品化前)

 

GPSA

ガスプロセッシング産業にエンジニアリングを提供するにあたり標準となる技術基準は米国のGas Procerssors Suppliers Association (GPSA) のEngineering Data Bookだった。当然ながら会社としてもGPSAの法人メンバーとなり年会にも出席した。GPSAの年会はいつもAmerican Gas Association (AGA) と一緒に開催されていた。1974年といえばジェラルド・フォード大統領が就任した年で、このころから米国は1979年に英国の首相になったサッチャー女 史に先駆けて規制緩和に舵を切っていた。AGAとの合同の公開討論会に出席すると規制緩和は是か非かという白熱の議論をしていたのを今でも思い出す。日本 が規制緩和に乗り出すのは1990年代であるから20年の遅れということになる。

ライス大学のリキ・コバヤシ教授とも技術協力契約を締結していた。GPSAの年会のためヒューストンを訪問したとき、ライス大学の先生の研究室を見学させ てもらった。先生は天然ガスのメタンなどのハイドロカーボン成分の気液平衡測定とガスハイドレート固気平衡の世界的権威だった。エアプロダクト・アンド・ ケミカル社の王博文博士は気液平衡計算のコンピューターモデルを作成するときはリキ・コバヤシ教授のデータを使うと言っていた。メーカーに作らせた測定装 置を使っている研究者に碌なものはいないと聞いていたので気液平衡測定のための微量定量ポンプを時計とネジと注射器を組み合わせて手作りしていたのを見て 感銘をうけた。先生になぜ手作りするのかと問いただすと既成のものを全てテストして役に立たないと分かったからだとおっしゃっていた。

先生のお宅の庭のプールの際に大きな木があって、ヤドリギが付いていたのを今でも思い出す。先生は日系二世だが東大の化学工学科を退官して八田先生の後任としてわが社の副社長をしていた矢木先生や国の原子力委員をしていた向坊先生と親戚だとおっしゃっていた。

大陸棚に薄く分布するガスハイドレートの総量は石炭を凌駕する量であるから資源不足に困ることはないというのが教授の予言であった。最近日本でも話題になるがいかがなものであろうか?

January 30, 2005

Rev. January 21, 2016

回顧録目次へ


トップページへ