第7章 1967-68年

タンカー輸送のための

エチレン自己冷凍設備

 

LNG受け入れ基地の設計支援でTガス本社に出向いていたとき、M油化(現三菱化学)からエチレン出荷設備の設計と建設の 引き合いを受けた。石油化学コンビナートはその中心にナフサクラッキングプラントを据え、製品のエチレンからポリエチレン、プロピレンからポリプロピレ ン、分解ガソリンから得られる芳香族製品の ベンゼン、トルエン、キシレン(BTX)からポリエステル、スチレンなどの誘導品を製造する一大コンプレックスである。エチレン、プロピレンなどガス製品は誘導品製造工場までパイプで直結されていた。

しかし、需給バランスを調節するために過不足のエチレンも冷却してマイナス104oCの常圧液体としてケミカルタンカー輸送が必要となったのである。この設計はまだわが社にとって未経験だからTガス本社に出向している私に上町僚司君を派遣するから設計指導してやってくれとTガスの事務所に送り込んできた。

臨界温度9oC以下の温度の液体としてパイプで運ばれてくる エチレンは1段の中間フラッシュドラムで減圧したのち、3%ニッケル鋼で造った貯蔵用球形タンクに直接減圧膨張させるととにした。発生するエチレンガスは LNGの受け入れ基地で採用した低温ガスを吸入できるテフロンライナーを使った往復動圧縮機を採用することにした。昇圧したエチレンガスはプロピレンサイ クルで冷却すればよい。いわゆる2元カスケード法である。コスト削減のため、エチレンとプロピレンの圧縮シリンダーは同じクランクケースに装着すればよい と引き合い仕様書に書いた。

プロピレンサイクルとエチレンサイクルの2元カスケード法

サイクルの熱収支はエチレン、プロピレンの圧力ーエンタルピー線図を使用した。化学品仕様のエチレン、プロピレンの純度は燃料用のプロパン、ブタンに比べ て格段に純度がたかかったからでもあるが、当時まだ電子計算機は普及していなかったし、プロセスシミュレーターは完成していなかったためである。

設計が完了して上町君も本社に帰ってしばらくすると営業の耕平から一番札のようだから客先への説明会に参加してほしいと言ってきた。四日市の工場の会議室 にはコンプレッサーメーカーのK製鋼の設計者もきていた。そこで泥縄式に説明会が始まった 。K製鋼の設計者の説明を聞いていると一段目のシリンダーの吸気量はタンクから出てくるガス量で問題ないのだが、二段目の吸気量は我々がサイドロードと呼 ぶものでフラッシュドラムからでてくるガス量で見積もっているようだ、2段目のシリンダーは1段目のシリンダーの吐出ガスにこのサイドロードを加えたもの でなくてはならない。これは困った。客先には1時間の休憩をもらい、プロジェクト担当者を連れてきていないので営業の耕平がメーカーの設計者に

「圧縮機の価格が上昇したら失注するかもしれない、それではお互い元も子ないから同じ価格で引き受けるようにいまここで電話して上司と交渉してくれ」

と強引に要求した。予想に反して簡単にOKが出た。機械メーカーの価格は需給バランスによって価格が倍になったり、半値となったりするものなのだ。設計者 や工員の雇用を重視すれば、注文の継続は大切なのだ。というわけで、仕様書の書き方と読み方の文化に違いに起因する誤解で安値受注してしまったことにな る。なにやらLPG基地の 初受注の時と同じようなことが生じたわけである。

めでたしめでたしでTガスに帰り、本プロジェクトの存在すら忘れてしまった。多分Tガスから帰任した直後のころだとおもうが、基地の建設も終わり試運転することになったので助けてくれないかと 建設現場から電話が入った。 常畠さんと2人で汽車に乗り、そこではじめてどう運転するか考えはじめるようなドタバタである。

 

コンプレッサーの悲鳴

夕刻に四日市の昭和四日市石油タンクヤードに到着すると顧客のおえらいさんが

「コントラクターは口を出しても良いが手をだしてはならない」

とのご発言である。恭しく承り、顧客運転員によりコンプレッサーのスイッチが入れられた。プロピレンサイクルのプロピレンドラムにはプロピレン液がすでに 充填されていた。しかしエチレンフラッシュドラムにもタンクにもまだエチレン液は張りこんでない。ガスだけ導入してまずガス循環運転するわけである。すぐ にリサイクル弁の容量不足が明らかになった。まずリサイクル弁は一段シリンダーについているだけで2段目には用意されていない。加えてシリンダーには 50%アンローダーが装着されているので弁の容量は50%でよいとの判断で弁サイズをきめたらしい。しかしプロピレンとエチレン液のフラッシュタンクが空 であるということはサイドローもゼロである。結果として2段目のシリンダーは設計値の20%位のガスしか入ってゆかない。アンロダーを利かせても中間圧力 が下がってしまう。モーター負荷は問題ないのだが 、シリンダーロッドはピストンの差圧に比例した力がかかる。設計値の1.8倍位の力がかかったのではないか。応力が増すにしたがいコンプレッサの音が悲鳴 に近い音に変わってくるのである。見積もり時に会った設計者が立会いに来ていて、どれではコンプレッサが壊れるかもしてないので 停めてくれという。でももすでに最悪の時はすぎて妙な音が出たのに壊れなかったではないか、長期運転ならいざ知らず、短時間なら材料に疲労もたまらないの で持ちこたえるだろうと判断。

「あなたの要請は聞きました。こちらのリスクで運転を継続させてください」

と、強引に押し切ってしまった。液を導入すれば問題は解決するのだ。ほんの短い時間の辛抱と自ら冷や汗をながしながら思ったものである。結果オーライ。さ すが歴戦のクーパーベッセマーの名機とその設計余裕のとり方の絶妙さに妙に感服した次第である。小さすぎたリサイクル弁は後日、弁体をワンサイズアップす るだけで、問題は解決できた。

 

エチレン膨張弁の凍結

保冷タンク頂部にあるエチレン膨張弁に弁開の信号が送られているにもかかわらずエチレンフラッシュドラム液面が上昇し続けているのに気がついた。該当の弁をチェックしてもらうとグランド部が凍結しているという。こういくこともあるかと 誰かが用意しておいたメタノールを垂らしてもらうと見事氷は解けたようで液面は正常にもどった。

コントロールパネル上の計器が示す液面や圧力が安定するまで時間がかかると感ずると一々顧客オペレータに比例帯や微分動作の設定値を聞き出して

「比例帯をすこし狭くしたら」

とか助言していたのだが、修羅場を過ぎ、疲れがたまり、夜も更けてくると運転員の動きが鈍くなる。気が短いのでハット気がつくと勝手にコントローラをパネルから引き出しより早く制定するように パラメーターを変えたり、マイクを握って運転員に指示を出している自分をみつけることになる。もう顧客のお偉いさんもなにもいわなくなった。

このころになると日ごろ豪胆な常畠さんもハラハラ冷や冷やで神経がやられむっつり黙ってしまった。なにせ新入社員のころ自分のミスジャッジで作業員を1名を死なせた経験の持ち主である。心の傷がうずき出すらしい。

タンクへ流れる積算流量計は殆どゼロを引いているのにタンク液面が見え始めた。しきりに頭をかしげていた計装担当の溜さんが倉庫にいってごそごそやっていたが

「あったあった」

といってにこにこしながら握りこぶしほどの金属の塊をもって出てきた。積算流量計のアンプを付け忘れていたのである。これをつけると流量計はほぼ設計値を示すようになった。

やれやれと午前2時頃、運転は顧客に任せて宿舎に引き上げた。

 

プロピレンのジュールトムソン弁下流の2相流れ

運転で明らかになった不都合としてはプロピレンを蒸発させるケトル型熱交換器が2基並列にあるのだが、その液面に差がつくのである。無論細い連絡配管があ るのだがそれでは平準化 させるには不足のようである。これはプロピレン液を減圧させる膨張弁の吐出が2相流になり、液とガスが不均一に流れ、片方に余計液が入ってしまうことと推 察された。ベストな解決方はケトル毎に弁をつけることだが、配管をシンメトリーにすることにより改善する。どちらの解決法を 採用したかの記憶はない。

 

気液分離層でのボルテックス

積算流量計のアンプでほぼ設計流量は流れていることがわかったが、詳細にタンク液面の増加速度のデータを解析するとフル運転で設計値に3%不足していることが判明した。設計に使った圧力ーエンタルピー線図の誤差を疑ったが、そのようなことは無いと判明。 その他、あらゆる可能性を拾い上げて一つずつつぶして最後にエチレンの縦型のフラッシュドラムの液ボルテックスしか疑わしいものはなくなった。 シャーロック・ホームズではないが、「不可能を消し去ったあとに残ったものが、どんなにありえそうにないことでも、真実なのだよ」だ。上町君がドラムのスケッチを作成していたときフラッシュ液ノズルをタンジェンシャル方向に指定するのをみて

「ホー面白いことをするな」

と思ったがとめはしなかった。それも面白いかもしれないと思ったからである。念のためバッフルを入れてみるとピタッと性能保証値の100%が出た。液ボルテックスが消え、ガスの吸い込みがなくなって 、コンプレッサーに余計な負荷がかからなくなったためである。よく社内ではプロセス設計屋の設計には40%の余裕があると揶揄されたものだが、100%ピッタリ、ビタ1文も出ないぞと変な自慢をしたものだ。

この設備の航空写真

下の航空写真はこの設備がある四日市の昭和四日市石油タンクヤードである。41年運転した2009年3月のグーグルマップでは健在のようだった。タンクも その後、増設されて3ヶになっていた。しかし4年後の2013年9月には全て撤去されて新しい設備になっていた。時代の変化を感じる。


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January 4, 2005

Rev. September 26, 2013

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