浅藻川に架かる小さな木橋をわたり「オソロシドコロ」とよばれる天道の聖域に入る。


参道となる山道。カシ、シイ、クスノキなどの自然度の高い照葉樹林が残されており、
大正時代に「龍良山原始林」として国の天然記念物に指定されている。


御嶽教対馬天道教会によって建てられた遙拝所(拝殿)。八丁郭には建物左側の隘路を進んでいく。


薄暗い森のなかに八丁四方の空間をもつことから「八丁郭」といわれるが、
本来は高僧の墓を意味する「塔頭(たっちゅう)が訛り、「ハッチョウ」になったものと思われる。


天道法師の墓とも伝えられているが、仏教色はまったく感じられない。
多くの先学が指摘されているように、墓ではなく、古代の祭祀場であったと考えられている。
 冬の玄界灘は、北西の季節風が強く吹きつけ大きく荒れる。午前10時30分に博多港を出た対馬行きのジェットフォイル(高速艇)が、途中停泊地の壱岐を出ておよそ20分後、なんらかの浮遊物を吸込み、翼走ができなくなった。翼走していれば船体の揺れは少ないが、停まると波しぶきが窓を打ちつけ激しく揺れる。結局、壱岐の芦辺港に低速運航で引き返すことになり、この日は壱岐での足止めを余儀なくされた。
 翌日、壱岐・郷ノ浦港からフェリーに乗り、14時50分に対馬・厳原(いづはら)港に上陸した。レンタカーを借り、走ること約50分。16時に対馬最南端の浅藻(あざも)地区にある「八丁郭(はっちょうかく)」の参道入口にたどり着いた。

 八丁郭の参道中程に、比較的新しいと思われる石の鳥居があり、そのかたわらに「八丁角由来記」と「自叙伝 御嶽教対馬天道教会 准教正 山下雪」が刻まれた黒御影石の石碑がある。鳥居の額束(がくづか)に社号は書かれていないが、柱には「昭和五十八年六月吉日 建之(けんのう)」と、山下雪の名前も刻まれている。
 「自叙伝」を記した山下雪なる女性は、対馬在住の御嶽(おんたけ)教の信者で、昭和36年(1961)夢のなかに天道(てんどう)法師が現れて「汝われの前に麦種子を持ち来れ」とのお告げを受け、以来、法師の古跡が放置されているのを憂い、「対馬天道教」として新たな天道信仰として再興し、現在も信仰の命脈を保っているという。
 御嶽教については、埼玉県東秩父村の「大内沢の御嶽大神」で触れた。御嶽教は修験道を起源とした教派神道の一つで、自然石に霊神の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。これらの石碑はお墓ではなく、修行を積んだ行者を神格化し、霊神として祀ったものである。

 対馬には、神とも人とも伝えられる「天道法師」に由来する対馬独自の信仰がある。天道信仰は霊峰・龍良(たつら・たてら)山(標高558m、別名:天道山)を聖地とする神体山信仰と、原初的な日輪信仰、穀霊信仰、母子神信仰が混然とした、神仏混淆の信仰であるといわれている。山下雪は、御嶽教に通底する山の宗教の面影を八丁郭のなかに見たのだろうか。

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 八丁郭は、龍良山南麓の深い原生林のなかにある。人と山の境界に位置する領域にあって、蕭然とたたずむ八丁郭の異様に、はかり知れない神秘性が感じられる。
 気温は1度まで下がっていた。空には雲が低くたれこめて、冷たい冬の夕闇が迫っている。あたりは不気味な静寂に支配されており、人の気配はまったくない。

 貞享3年(1686)に編纂された『対州神社誌』によると、対馬には天道地、天道茂、天道山などと呼ばれる神霊の鎮まる聖域が20カ所あり、そのなかでも浅藻の八丁郭は、天道信仰の核となる重要な聖地とされている。
 八丁郭は、天道法師の墓もしくは遥拝所、祭祀場とも伝えられており、方形壇の基底一辺は6.2m、高さ3.1m、積まれている石はすべて頁岩(けつがん)と呼ばれる厚さ5〜10cmほどの平石で、頂には小さな木の祠が置かれている。基壇正面には蝋燭立てと供え物が並べられていて、現在も定期的な整備、保護が行われていることがうかがえる。

 八丁郭のある浅藻地区は、別名「卒土(そと)」とも称し、地元の人々から「恐ろし所(おそろしどころ)」として畏れられ、俗人の立ち入りは固く禁じられていた。あやまって森に入り八丁郭を見た者は、頭に自分の履物をのせて「インノコ、インノコ(犬の子、犬の子)」と言って後ずさり、その場を去らなければならなかったという。

 浅藻地区は、明治期になって移住者により形成された集落であるという。室町時代中期の1443年、朝鮮通信使の書状官として来朝した申叔舟(しんしゅくしゅう)によって著された『海東諸国紀』(1471年)には、浅藻の戸数は15軒余と記されている。その後廃村となり、江戸中期から明治時代初期までは、人が住むことも、立ち入ることも許されない不入(ふにゅう)の聖地であった。
 明治時代に入り、対馬南端が「海の宝庫」として知られるようになると、山口県屋代島(周防大島)の久賀(くか)の漁師たちが住みはじめ、明治30年頃には定住者も100戸に増えたという。
 この時代の浅藻開発については、昭和25〜26年、渋沢敬三の提唱によって行われた九学会連合対馬共同調査に参加した民俗学者・宮本常一の『忘れられた日本人』の「梶田富五郎翁」(岩波文庫)に詳しく記されている。

 また、大正8年(1919)、当時まだ東京帝国大学大学院の学生だった平泉澄(ひらいずみきよし)が当地を調査し、『海東諸国紀』にある「罪人走入神堂則亦不敢追捕(罪人走りて神堂に入れば則ちまた敢えて追補せず)」の一文から、原始的な「アジール(聖域を意味する語。古来罪人がそこに逃げ込めば、追手も捕縛を諦めねばならない聖なる地域、避難所をいう)」論を展開されている。

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 対馬に伝わる天道法師の縁起には、『対州神社誌』に記載されている「由来譚」と、その4年後の元禄3年(1690)に僧・梅山玄常によって著された「天道法師縁起」がある。ここでは「対州神社誌」の「由来譚」を紹介する。およそ以下の通りである。

 白鳳13年(673)、対馬の豆酘(つつ)郡内院(ないいん)村の一女が日輪の光を感じて妊(はら)み、男子を生んだ。のちの天道法師である。その子長じるに及び聡明俊慧(しゅんけい)、僧となりて後に、巫祝(ふしゅく)の術を得たり。朱鳥6年(691)、9歳のときに上洛し、大宝3年(703)に対馬に帰ってきた。

 霊亀2年(716)、33歳のときに、元正天皇(「天道法師縁起」では文武天皇)が病に倒れた折、亀卜(きぼく)によって占うと、対馬に天道法師なる者あり、彼を召して祈らせれば病はたちまちに癒えるであろうと告げる。さっそく勅(みことのり)が発せられ、使者が法師を迎えに来る。
 法師は、内院より壱岐に飛翔して、そこから筑前国の豊満岳に至り、朝廷の御所に降り立った。法師はただちに秘法を修し、みごと天皇の病を癒すことができた。
 天皇はその法力に深く感悦し、褒美として対馬の年貢の免除と銀山の停止、加えて、島の罪人が天道の地に入ったら、これを免罪することを許された。
 また、「宝野上人(ほうやしょうにん)」の菩薩号を賜り、行基菩薩を伴って対馬に帰国する。行基は6体の観音像を刻んだ。その後、天道法師は豆酘の卒土山(そとやま)に入定した。

 天道法師の母の出自については、「天道法師縁起」に「その母は、内院女御の賤婢(せんぴ、めしつかい)なりし」とあり、対馬藩士・平山東山が著した『津島紀事』(文化6年(1809))には、「虚舟(うつろぶね)に乗せられ豆酘の浜に漂着した」とする説もある。また、龍良山北麓の山中にある「裏八丁郭」が母公の墓所とされている。

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 対馬の郷土史家・永留久恵氏著の『対馬国志 第1巻』(2009年)によると、八丁郭とよく似た形の積石塔が、韓国慶尚北道の義城郡(ウィソンぐん)石塔堂の山中にあるという。このピラミッド型石塔の基壇は正方形で、東側は7段、西側は傾斜面にあり5段、塔の四方に龕室(がんしつ)があり、それぞれに1体の石仏坐像が安置されているという。この石仏の観察から築造年代はおよそ9世紀と推定されている。

 また、これと似たものが日本にもあるとして、岡山県赤磐市の「熊山遺跡」を挙げておられる。私も八丁郭を見て、ただちに想起したのがこの「熊山遺跡」であった。
 熊山遺跡は、正方形の基底部の上に3段の基壇が重ねられており、2段目の四方中央部に龕室がある。築造年代は、出土した須恵器などから奈良時代末(8世紀末)と推定されている。

 現在、八丁郭の段の形跡は判然としていないが、三品彰英の「対馬の天童伝説」(『森の神の民俗誌』に収録 三一書房)に、八丁郭を復原した側面図が載せられている(右図)。これを見ると八丁郭の原形は、5段の積石塔であったと推測される。
 永留氏は、八丁郭に龕と思われる壁面の凹みは見られないが、義城の積石塔と熊山遺跡の築造年代が近いこと、および天童法師縁起に中国の仙人を思わせる行動が観られることから、これらは奈良時代の神仏習合初期の文化遺産と考察されている。

 最後にもう1つ、「巨石巡礼」のなかに八丁郭とよく似た遺跡がある。蛇足かも知れないが、岩手県奥州市の「愛宕社」をここに挙げておく。
 愛宕社は、平石を積み上げた累石壇ではないが、大小さまざまな石が露出した、直径約30m、高さ15mのピラミッド状の岩山である。その性格は未だ明らかになっていないが、八丁郭、熊山遺跡と同様に、社殿をもたない神社であるという点は共通している。

 それぞれが、似て非なる性格をもつ信仰である可能性はあるが、墓としても祭祀場としても、磐座・磐境を中心としているところは、古代神道の原像が息づいているものと思われる。

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2023年12月22日 撮影


県道24号から「八丁郭 →」の案内標識にしたがい
分岐路に入り、舗装道の途切れた広場に車を置く。
ここから背後に見える龍良山に向かって歩いて行く。


八丁郭の参道中程にある石鳥居。
昭和58年に対馬天道教会によって建てられたものだ。



石鳥居のかたわらにある「八丁角由来記」と
「自叙傅」御嶽教天道教会 山下雪の碑。

























































































































































八丁郭の復原図。
(三品彰英「対馬の天童伝説」『森の神の民俗誌』より)




島の最南端にある浅藻湾。永らく無人の浦であったが、明治9年頃より山口県大島郡の漁民が移り住んで開拓された。