「御嶽大神」のある大内沢地区の上ノ貝戸集落。標高はおよそ350m。


白丸太で造られた見慣れぬ鳥居。石段の右脇に丸石神が祀られている。


高さ2.3m、幅1.8m。堂々たる「御嶽山大神」の神碑。


神々の名前が刻まれた神碑。これらの石碑はお墓ではない。
「大江大神」の碑裏には明治二十七年一月吉日、「祓戸大神」には明治二十七年十一月九日と記されている。


神碑が並ぶ下の段には、「普寛霊神」「覚明霊神」など7基の霊神碑が並んでいる。
 埼玉県の寄居町から県道294号線を南下して「大内沢(おおうちざわ)花桃(はなもも)の郷」方面に向かう。大内川を渡ると、ここから大内沢地区・上ノ貝戸(うえのかいと)集落にある「御嶽大神(おんたけおおかみ)」まで約1.4km。つぎつぎとカーブを切りながら急勾配の坂道を登っていく。

 埼玉県唯一の村「東秩父村」は、秩父郡にあって村名にも「秩父」とあることから、てっきり秩父圏内に属していると思っていたが、村に入り、えらく牧歌的で大らかな丘陵の起伏を眺めていると、どうも秩父とは異なる空気が流れているように感じられた。実際、住民の広域行政は、秩父郡ではなく、東松山市や比企郡に属しているという。

 大内沢は東秩父村の北部に位置し、登谷山(とやさん、標高668m)をはじめとする外秩父山地の山ふところに抱かれた閑静な山里である。
 かつての大内沢は、耕作放棄地が増え、荒れた里山になっていたという。地域住民はそこに花桃を中心に桜やレンギョウなどを植え、景観の改良に励んでいった。いつしかそこは、約8,000本の花木が咲き誇る「桃源郷」と称される花の名所に再生された。
 なだらかな山の斜面に民家が点在する里山の風景は、眺望絶佳(ぜっか)「プチ・天空の集落」ともいえるだろう。

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 大内沢・上ノ貝戸集落に入った村道の脇に「御嶽大神」の入り口を示す小さな道標が設置されている。矢印に示された坂道を30mほど上ると、見たことのない形の鳥居(?)があらわれる。通常、鳥居は左右2本の柱の上に笠木とよばれる横木がわたされているが、この鳥居は横木が2本の柱に挟まれた形になっている。扁額の「左横書き」も現代風であり珍しい。
 祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三柱の神を一体化して「御嶽大神」と奉称し、祀られている。

 石段を上った一番奥に、石積みの基壇上に先端がとがった石碑が置かれている。石碑の中央には、大きく「御嶽山大神」、その左右に相殿神(あいどののかみ)の「八海山大神」と「三笠山大神」、その左に小さく「雨宮春潭拝書」と彫られた大きな石碑がのせられている。
 雨宮春潭(しゅんたく、1841〜1904年)は、江戸時代末、忍(おし)藩松平家や徳川将軍家の御典医を勤めていた漢方医で、明治5年に寄居町・鉢形小学校の校長となり、医療・学問の普及に尽力した人物である。
 「御嶽山大神」碑の裏面には「明治二十六年第九月吉日」と刻まれており、他の石碑には明治27年(1894)から44年(1911)の刻印が打たれていた。

 「御嶽山大神」碑の左隣、ひな壇状の石積みの上には、日本武尊(やまとたけるのみこと)、「あひらうんけんこんこうそわか」と記された碑。その左に「大江大神」「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」「聖徳太子」「摩利支天(まりしてん)」「長崎大神」の神碑が並び、下の壇上には「普寛霊神」「覚明霊神」「一心霊神」「嶽憲霊神」「豊真霊神」「嶽心霊神」「照心霊神」の7基の霊神碑(れいじんひ)が並んでいる。

 神域に、社殿のような建物は造られていない。御嶽信仰では、自然石に霊神の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。これは山岳宗教の特徴といえるもので、修行を積んだ行者や講の運営に功績のあった信者を神格化し、霊神として祀ったものである。
 たくさんの神碑と霊神碑が並ぶ独特の光景は、神社というより霊神場(れいじんば)の趣きであり、そこに並々ならぬ信仰の深さが感じられる。

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 そもそも御嶽(おんたけ)信仰とは、長野県と岐阜県にまたがる独立峰・木曽「御嶽山(おんたけさん、標高3067m)」を根本道場とする山岳宗教である。
 江戸時代中期、覚明行者(かくめいぎょうじゃ)によって黒沢口登山道が、普寛行者(ふかんぎょうじゃ)によって王滝口登山道が開道されると、庶民の御嶽山登拝がさかんになる。

 普寛行者は、武蔵国秩父郡(埼玉県)大滝村の生まれで俗名は浅見左近。神仏習合の寺院であった郷里の三峰山観音院で修行し、寛政4年(1792)に王滝口を開き、関東地方に御嶽講を組織し、武蔵、相模を中心に御岳信仰を広めていった。

 御嶽教は、明治15年(1882)、江戸・浅草で油問屋を営み、熱心な御嶽行者であった下山応助(おうすけ)によって創始され、教派神道(神道十三派)の一派として、政府の公認を得た。下山応助の出生地は、武蔵国入間(いるま)郡、下野国(栃木県)足利郡など諸説ある。

 大内沢の御嶽大神が建立された明治26年から44年当時、当地域の信仰者は、御嶽講の御師に引率されて御嶽山詣りをおこなったと思われる。鉄道の利用も不便なこの当時、ひたすら中山道(なかせんどう)「木曽路」を歩く御嶽詣りは一つの修行であり、また苦行であったことだろう。
 御嶽山を開いた覚明と普寛は、人間の霊魂は死後、御嶽山(おやま)を安住の地とすると考えた。「霊神碑」はお墓ではなく、死後の魂が御嶽山に還るよう祈願し、建てられたものである。

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2023年9月4日 撮影


「長崎大神」神碑の裏面。
中央に「明治四十四年三月」とあり、
下に発企者として8名の名前が刻まれている。


参道石段の脇にある丸石神。
山梨県一帯に見られる道祖神だが、
雁坂峠(かりさかとうげ)を越えて
当地まで伝播したものだろう。

大内山の大通領(だいつうりょう)神社からの眺め。
「桃源郷」と称される花桃の郷では、毎年3月下旬の日曜日に花桃まつりが開催される。見頃は3月下旬〜4月上旬。