神在神社の注連柱(しめばしら)。2本の石柱に注連縄を張った注連柱は、鳥居の原型ともいわれている。


宝永4年(1707)に再建された神在神社の社殿。


近年まで竹藪の中にあったが、巨石周辺はきれいに刈り込まれ整備されている。


新たなパワースポットとして、県内外からも参拝客が訪れるようになったという。


巨石を支えるように伸びる3本の木。



 福岡県の最西部、糸島市の中央部にある神在(かみあり)地区、古くは「神有」とも記された村だったが、市町村合併により明治22年(1889)に加布里(かふり)村に、昭和6年(1931)に前原(まえばる)町、平成22年に糸島市に編入されている。
 「神在」の地名由来については『糸島郡誌』(昭和2年)に、古老の説によると神功皇后がこの地を通られたとき、紫雲の棚引くのを見て「ここには神あるべし」と言われた伝説によるとある。

 また同書には、村社・神在神社について「大字神在字神在にあり。祭神天津仁々岐命(あまつににぎのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、菅原大神(すがわらのおおかみ)。祭日舊(旧)八月一日。もと天神山の上に鎮座ありしを元禄十六年(1703)癸未今の地に遷せり」と記されている。

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 社伝によると、創建は第28代宣化(せんか)天皇2年(537)、大伴連(おおとものむらじ)狭手彦(さでひこ)が新羅遠征の成功と渡海の安全を祈願するために建立したのがはじまりとされている。後の寛文4年(1664)に識者と村の有力者が現在地に小さな社(やしろ)を建立、宝永4年(1707)に社殿を再建し、現在の姿となったとある。

 大伴連狭手彦については、当サイトの「佐用姫岩(さよひめいわ)」を読まれた方は記憶にあるだろう。狭手彦とは、松浦長者(まつらちょうじゃ)の娘・佐用姫を残して朝鮮半島にわたっていった悲恋伝説の片割れとされている人物である。
 狭手彦は、大化前代から平安時代初期にかけて活躍した名門貴族・大伴金村(かなむら)の三男で、欽明23年(562)に大将軍に任命され、兵数万を率い再び渡鮮して高句麗に勝利。逃亡した高句麗王の宮に進入し、多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、七織帳(七色の糸で織った錦帳)を第34代舒明(じょめい)天皇に献上したといわれている。

 神在の地名由来は神功皇后によるものとされているが、当社の由緒に神功皇后に関する記載はない。神功皇后と狭手彦に共通する伝承として、神功皇后は新羅に、狭手彦は新羅と高句麗に遠征していることである。
 弥生時代、倭国の最先端地域は北九州だった。朝鮮半島に近いという地の利を活かし、交易で栄え発展していった。当時の渡海・着岸拠点は唐津付近であったと考えられており、神在は、筑紫国(つくしのくに)から唐津に往来するための要衝の地であった。神功皇后、狭手彦伝承の真意は明らかでないが、このような土地柄が起因となって、狭手彦が神在神社創建の由緒にとして語られることになったのではないだろうか。

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 神在神社の神石(しんせき)は、神社の背後に広がる雑木林の中に鎮座している。案内には「神石まで約260m これより先は徒歩です 駐車場はありません」と記されている。案内矢印にしたがって、神社南の太陽光パネルが並ぶ発電所の脇道を歩くと、薄暗い竹林の中にタマゴ型の巨大な石が忽然と姿をあらわす。

 以前は鬱蒼とした竹やぶの中にあったと思われるが、現在、石の周囲はきれいに刈り込まれており、外周約16m、高さ約4mの石をぐるりと廻って眺めることができる。このような整備が行われたのはごく最近のことであるらしい。
 西日本新聞のネット記事(2019年1月18日付)には、しめ縄を巻いて巨石をお祭りするようになったのは2016年11月からのことであり、竹林に覆われて埋もれた存在だった巨石を、神社総代の馬田学さんが再発見したのがきっかけとなり、地主の了解を得て竹林を伐採。地元区長会の協力を得て道を整備し、案内板を立てたとある。
 こうした整備が功を奏したのだろう。「神石」の存在は、ネットやテレビで紹介され、糸島市の新たなパワースポットとして話題になり、県内外からも参拝客が訪れるようになったという。私が訪ねたときも、石の前で両手を大きく広げるポーズをとる女性3人組と遭遇した。なんだか場違いなところに足を踏み入れたような気持ちになったものである。

 ネット記事には、「石(神石)の周りで勾玉(まがたま)が出た」とある。神在地区には、近畿と韓国の古墳だけに見られる木製埴輪が出土した「釜塚(かまつか)古墳」(5世紀)、直弧文が刻まれた紡錘車が出土した神在横畠(かみありよこばたけ)遺跡などがあり、神社の北西500mの地点に糸島地方最大の前方後円墳「一貴山銚子塚(いきさんちょうしづか)古墳」(4世紀)がある。

 神在神社にはもう一つ見逃せない石がある。本殿右側の埴安命(はにやすのみこと)を祀る祠の中に置かれた「足形石」とよばれる形状石である。ダイダラボッチ(日本に伝わる伝説的な巨人)の足を思わせる石の大きさは40〜50cmあるだろう。
 神社の由緒にこれといった伝承は記されていないが、一般には、足形石は神霊の来臨や影向(ようごう)を伝えたものとされている。自然の造形物としては、類を見ないユニークなものなのである。

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2019年4月22日 撮影

埴安命を祀った小社の中に「足形石」が納められている。



祠の中の「足形石」。