松浦川沿いの湿地にある「佐用姫岩」。遊歩道をわたって岩のそばまで行くことができる。


岩の上には、鏡山から跳び降りたとされる佐用姫の足跡が残されているという。


岩の前に置かれた弁財天の祠。


松浦川側からみた「佐用姫岩」。
 佐賀県北西部、玄界灘に面した唐津地方一帯は、かつての肥前国(ひぜんのくに)松浦郡(まつらぐん)に属し、『魏志倭人伝』に見える「末盧国(まつらこく)」に比定されている。

 末盧国は、魏の使者が洋上の島・対馬、壱岐(一支国、いきこく)を経由して、最初に本土に上陸したいわば大陸への玄関口にあたるところだ。古来大陸との交流により栄えた「クニ」であり、稲作文化もここから日本全土に広まっていったと思われる。
 周辺には、日本最古の水稲耕作遺跡である縄文時代晩期の菜畑(なばたけ)遺跡や日本最古級の大型前方後円墳・久里双水(くりそうずい)古墳(全長108.5m)、朝鮮半島から伝播したと推察される葉山尻支石墓群(はやまじりしせきぼぐん)など数多くの遺跡が点在している。

 唐津市の中心街から少し東に離れた松浦川(まつうらがわ)下流の左岸に「佐用姫岩(さよひめいわ)」または「松浦岩(まつらいわ)」と呼ばれる花崗岩からなる巨石群がある。
 佐用姫岩は、古くは『万葉集』にも記載され、文学、能、演劇などの題材に広く使われている「松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説」ゆかりの地とされ、岩の上に佐用姫の故跡とされる足跡が残っているという。
 岩をよじ登って確認したいところだが、私の運動能力ではとうてい無理だと観念した。よってこの足跡は見ていない。

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 「松浦佐用姫伝説」は日本三大悲恋物語の一つとされているが、他の「羽衣物語」「浦島物語(竹取物語とする説もある)」ほどには、広く知られていないだろう。佐用姫伝説は、旧松浦郡の説話がルーツとなって、少しずつ形を変えて東北地方にまで広がっているが、以下に地元に伝わる佐用姫伝説の概要を記す。

 宣化天皇2年(537)、任那、百済を救済するため、勅命により新羅への出兵を命じられた大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が、兵を率いて松浦の里へやってきた。このとき、狭手彦の身の回りの世話をした娘が、篠原村(現在の唐津市厳木町)の長者の娘・佐用姫であり、いつしか二人は恋に落ち、夫婦の契りを結ぶ。

 幸せな時間もつかの間、狭手彦の軍団は出陣となり、二人は別れることになる。別れを惜しむ佐用姫は玄界灘を一望できる鏡山に登り、狭手彦に向かい領巾(ひれ、スカーフ状の白い絹布。古代から魔よけなどの力をもつと信じられ、祭儀のときの服飾に使われた)を振った。よって鏡山は別名「領巾振(ひれふり)山」と呼ばれるようになる。
 遠つ人 松浦佐用姫 夫恋(つまごい)に
 領巾ふりしより 負(お)へる山の名
 『万葉集』巻五、大伴旅人(おほともたびと)が詠んだとされる歌。

 軍船の影が小さくなると、佐用姫は鏡山から松浦川の中にあった大岩に飛び移り、着物が濡れたので「衣掛松(きぬかけまつ)」で干し、さらに呼子(よぶこ)港の沖約500mの地点に浮かぶ加部島(かべしま)まで追いすがったが、ここで船の姿は見えなくなった。姫はこの地で7日7晩泣き続け、涙もかれはてついに一塊の石となったという。

 また、『肥前国風土記』松浦郡の条には、上記と結末の異なる説話が記されている。
 こちらでは、佐用姫は弟日姫子(おとひひめこ)という名前で登場する。弟日姫子が狭手彦と別れて5日たった後、一人の男が姫子のもとに通いはじめる。顔かたちが狭手彦に似ており、不思議に思った姫子は、ひそかに男の衣の裾に「続麻(うみお、麻糸のこと)」をつなげ、翌朝それを辿っていくと、領巾振山の頂の沼辺に蛇体で寝ており、人と化して姫子を誘う。驚いた従女が姫子の親族に告げ、親族が駆けつけると、蛇も弟日姫子も消え失せて、沼底に人の屍が見えたという。その「骨」を弟日姫子の遺骸として、峰の南に墓を造り納めたという。いわゆる三輪山型の蛇聟入り説話である。

 世阿弥(ぜあみ)の謡曲「松浦佐用姫」は、ほぼこの伝説を取り入れたもので、昭和38年(1963)、世阿弥生誕600年記念能として復曲上演され、2000年に観世流の正式な演目に加えられている。

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 標高284mの鏡山は、北に国の特別名勝「虹の松原」を望む地にあり、数々の伝説に彩られた歴史ある山である。山の名は、神功(じんぐう)皇后朝鮮出兵の折、戦勝を祈念して山頂に鏡を埋めたことに由来するといわれている(鏡神社記)。
 鏡山からは佐用姫岩は、直線距離にして約3kmある。佐用姫はここまで空を飛んだのか、はたまた飛ぶように駆け下りたのか……。
 飛び移ったときに、佐用姫の衣が濡れたとあるのは、近年までこの巨石群が松浦川の中にあり、川に浮かぶ岩島であったためだろう。現在も岩の周囲は湿地となっているが、当時は干潮のときだけ歩いて渡れたという。

 岩の前には、佐用姫ゆかりの弁財天を祀る小さな祠が置かれている。弁財天は、記紀神話の市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと、宗像三女神の一柱)と神仏習合し、水の神とされている。
 上記の伝承だけでは、なぜ、佐用姫が水の神と結びつくのか判然としないが、全国各地に伝播している佐用姫伝説を概観すると、佐用姫が本来は水の神に仕え、生け贄となる女性であったことがわかる。

 岩手県胆沢(いさわ)地方に伝わる伝承には、掃部(かもん)長者の妻が強欲で、その欲深さが祟り、ついに大蛇となって夫や子供を喰い、美しい娘を生け贄に差し出すように要求する。その生け贄として、肥前から遠く離れた奥州までやってきたのが松浦の佐用姫であった。佐用姫は人身御供となるが、大蛇に一呑みにされようとしたとき、姫の読経の法力によって大蛇を改心させ、姫はめでたく肥前に帰っていく。のちに佐用姫は長者となって近江国に現れ、竹生島(ちくぶしま)の弁才天となって祀られたという。

 前述した地元の伝承では、佐用姫は悲しみのあまり石と化してしまうが、この石は望夫石(ぼうふせき)と呼ばれ、加部島に鎮座する田島神社の境内社・佐用姫神社の床下に埋められ、ご神体として祀られているという。

 望夫石には後日談がある。石上堅の『新・石の伝説』(失恋した石)より抜粋する。
 「豊臣秀吉が名護屋にいた時、この島に遊び、海辺の石に休もうと腰掛けたところ、その石があたたかくなって、むくむくと動いたので、驚き由縁をたずねると、佐用姫の石と古老が答えた。秀吉はそんな馬鹿げたことがあるものかと、その石に小便をかけたところ、沖から俄に大波がおしよせ、この石を洗い流し清めたので、恐縮して神領百石を寄進したと伝え、神社にその朱印状が保存されています」とある。
 愛別離苦の悲しみから生まれた望夫石は、おろそかに扱うと、法外な報いを受ける「たたり石」の一面も併せもっていたようだ。

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2019年4月21日 撮影

案内板


右側の台形状の山が鏡山。佐用姫はこの山から岩の上に飛び降りたといわれている。