興玉の森(伊勢市中村町)に鎮座する宇治山田神社。


宇治山田神社裏手の社叢にある石積み遺構。興玉神の拝所とされている。
 伊勢市中村町の南西端、五十鈴川に架かる御側橋(おそばばし)の左岸に「興玉(おきたま)の森」と呼ばれる標高約20m、直径約90mほどの円形状をした小高い丘がある。この森の中に、皇大神宮(内宮)の摂社・宇治山田(うじようだ)神社があるのだが、この入り口がなんとも分かりづらい。樹叢の周囲をウロウロと巡回し、やっと丘陵南側の細い路地に、小さな社号標が立つ参道の入り口を見つけることができた。

 苔むした参道を上りきったところに、玉垣に囲まれた神明造りの社殿が鎮座している。神社名の宇治山田は、伊勢神宮内宮のある「宇治」と外宮のある「山田(やまだ)」とを合わせた地名から付けられたものである。当社の祭神・山田姫命(やまだひめのみこと)は、水の神・大水上神(おおみなかみのかみ)の御子で、このあたりの山田地区の守り神でもあった。
 もとは五十鈴川を望むところにあったというが、中世に入って社地の足跡が湮滅(いんめつ)し、明確な出自は不詳となった。当地に宇治山田神社が再興されたのは明治2年(1869)のことである。
 また、当社には内宮末社の那自賣(なじめ)神社も同座しており、祭神は大水上御祖命(おおみなかみのみおやのみこと)と御裳乃須蘇比賣命(みものすそひめのみこと)で、両社の祭神3柱とも五十鈴川の水の神とされている。

 江戸時代前期の『元禄勘文』には、「興玉ノ森、中村ノ西ニ在リ、今ノ俗上ノ森ト云フ、社無シ」とあり、興玉の森は、俗名「上(うえ)の森」ともいわれており、森の中に社(やしろ)はなかったと記されている。森自体が神聖なものと見なされ、信仰の対象となっていたのだろう。

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 この丘陵が「興玉の森」と呼ばれる所以は、宇治山田神社の社殿裏手、丘陵西側の石積み遺構にある。今は、社叢を埋めつくした落ち葉のあいだに隠れ、人頭大の石が露出した瓦礫のように見えるが、もとは「表八尺横三尺(約240cm×約90cm)」の大きさで、東方を向いて、森の中央を拝む形になっており、石積みの前に鳥居が建てられていた。
 この石積み遺構で、どのような祭祀が行われていたのか、文献史料が存在しないため詳細は不明だが、おそらくは、猿田彦神の末裔とされる宇治土公(うじのつちぎみ、「うじとこ」とも)氏が、興玉の森そのものを神域として、自らの祖先神・興玉神(おきたまのかみ)を祀る祭祀が行われていたと思われる。

 興玉神は、「二見興玉神社・夫婦岩」にも登場している。夫婦岩から望まれた興玉石は、興玉神(猿田彦大神またはその子孫である大田命(おおたのみこと)の別名であるという)が降臨した霊跡とされていた。
 このほかに、伊勢にはもう一つ興玉神をまつる神域があるのだが、残念ながら伊勢神宮(内宮)正殿の外玉垣の中にあるため一般の参詣者は見ることができない。
 『神宮摂末社巡拝』(昭和18年 猿田彦神社講本部)によると、内宮正殿の北側、御垣内の西北隅に、石畳の神座が2座設けられており、前の方(東)が興玉神の神座で、後方(西)が宮比神(みやびのかみ)の神座とされている。この両神座には社殿がなく、石積み石畳の中央に石神1体と榊の木1本づつが植えられている。と記されている。

 興玉神は、伊勢の狭長田(さながた)、五十鈴川の川上の地主神であり、この地にある皇大神宮(内宮)の守護神とされおり、宮比神は大宮売神(おおみやのめのかみ)ともいわれ、猿田彦の妻である天鈿女命(あめのうずめのみこと)の別名とされている。
 内宮でおこなわれる神嘗祭や月次祭などの重要な祭事の前には、まずこの両神座を参り、この神の御魂を招いて神事の無事を祈念したという。五十鈴川のほとりに鎮座する3つの興玉が、古来からことのほか重要視されていたことが分かるだろう。

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興玉の森にある宇治山田神社の入り口は分かりづらい。
神社周辺の道は狭く、駐車場もない。
車は伊勢市営(内宮)B5駐車場に
置いていくことをオススメする。



猿田彦神社。社殿は二重破風・妻入り造りの独特なもので、俗に「さだひこ造り」と呼ばれている。
 日本神話「天孫降臨」の段に、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の一行が、高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに)に天降ろうとしたときに、天の八衢(やちまた、道がいくつにも分かれている辻の意)で異様な風貌をした猿田彦神と遭遇するくだりがある。
 『日本書紀』一書の一には、その鼻の長さ七咫(ななあた、約126cm)、背の長さ七尺(約210cm)余り。また、口尻(くちわき)は明るく光り、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように大きく、真っ赤な酸醤(ほうずき)のように照り輝いている、と描かれている。

 瓊瓊杵尊の道案内を担った猿田彦神は、その後、天鈿女命とともに、その本拠地である伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴川の川上に舞い戻り、そこで暮らしたとされている。さらに、猿田彦大神の後裔とされる大田命は、垂仁天皇の御代、伊勢に到着した倭姫命(やまとひめのみこと)に、天照大御神の鎮座する神宮の地を教示し、土地を献上したといわれている。

 以上のことから猿田彦神と大田命は、伊勢地方と密接な関係にあった神であり、皇大神宮(内宮)の創建に大きな功績があった神とされ、以来、その系譜を継ぐ宇治土公氏が、神宮で玉串大内人(たまぐしおおうちんど)という職に代々任ぜられ、20年ごとの式年遷宮では、心御柱(しんのみはしら)と御船代(みふなしろ)を造る重要な役割を果たしてきた。

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 猿田彦神社は、伊勢神宮内宮の北方約1.3km、興玉の森の西方約700mの地点にある。当社は猿田彦大神を主祭神とし、相殿として大田命を祀っている。
 『神社明細帳』(明治12年、大正2年)によれば、当社の創立年代は不詳であるが、宇治土公氏が内宮の近くの興玉森に祖神を祀ったことが濫觴(らんしょう)であるという(『日本の神々』6)。
 元をただせば、猿田彦神社は宇治土公氏の私邸内に屋敷神として祀られていたが、邸の移転により鎮座地は確定せず、現在の地に移ったのは延宝5年(1677)という。慶応3年(1867)に火災にあったが、明治11年に社殿を復興し、県より法的に「神社」として公認された。

 現在立つ、二重破風・妻入り造りの宏壮な社殿は、もともと境内の中央にある八角形の石柱「方位石」の場所にあったものを、昭和11年(1936)に新しく建て替えるのと同時に移したもの。平成29年、3回目の修復工事を経て現在に至る。
 境内には天鈿女命を祀る「佐瑠女(さるめ)神社」も鎮座しており、芸能の神・縁結びの神として崇敬され、多くの参拝者で賑わっている。

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2022年6月29日 撮影


猿田彦神社の古殿地。
昭和11年(1936)まで本殿がここにあった。
十支十二支の方位が刻まれた八角の石柱は、
「みちひらき」のご神徳をあらわすとされている。



猿田彦神社境内にある「たから石」。
石が宝船の形に似ており、蛇が乗っている姿にも
見えることから縁起が良いとされている。



猿田彦神社本殿の後方、小橋を渡った先にある御神田。
毎年5月5日には豊作を祈って早苗を植える「御田祭(みたさい)」(県無形文化財)がおこなわれる。