夫婦岩は、現在は海中に没している「興玉神石」の遥拝所であり、伊勢神宮の禊場として人々の進行を集めていた。


大岩は高さ9m、小岩は高さ4m。6月の夏至の頃に夫婦岩の中央から朝日がさし昇る。


二見興玉神社拝殿。祭神として猿田彦大神、宇迦之御魂大神が祀られている。


岩屋授与所の隣に、東面した「天の岩屋」と呼ばれる岩窟があり、横に天鈿女の石像が置かれている。
 1年のうちでもっとも昼の時間が長く、夜が短くなる夏至の候、男岩と女岩、大小2つの岩が並ぶ二見興玉(ふたみおきたま)神社の夫婦岩(めおといわ)の間から、約200km離れた霊峰富士の御姿と日の出が重なり合う「ダイヤモンド富士」を拝むことができる。

 当地を訪れた6月29日の前日、ダイヤモンド富士の撮影に成功した川辺秀子さん(86歳)に神社境内で会うことができた。おどろくほど矍鑠(かくしゃく)としたおばあちゃんで、得意満面の笑顔で中日新聞・朝刊の紙面を見せてくれた。6月に入ってほぼ毎日、午前2時ごろに来て三脚を据える最良の場所取りをして、午前4時40分ごろの日の出を待ち構え、絶好のシャッターチャンスをものにしたという。

 当社の由緒によれば、夫婦岩の男岩は「立石」、女岩は「根尻岩」ともいわれ、総称して「立石」、親しみを込めて「立石さん」と呼ばれていた。江戸時代まで今のような神社はなく、伊勢神宮への参宮を控えた参拝者が、二見浜の海水に浸かり、心身を清める禊祓(みそぎはらえ)の場であった。

 天平年間(729〜749年)、奈良の大仏勧進のため諸国を行脚していた僧・行基(ぎょうき)がこの地を訪れ、興玉神(おきたまのかみ)の本地垂迹として太江寺(たいこうじ)を創建し、境内に興玉社を創祀した。明治30年(1897)、興玉社は二見浦へ遷座し、同43年(1910)に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る三宮(さんぐう)神社と合併し、二見興玉神社と称するようになった。「夫婦岩」と呼ばれるようになったのも明治時代以降のことである。

 夫婦岩は、猿田彦命ゆかりの霊石とされる「興玉石(おきたまいし)」と、岩の間から昇る「日の大神」を拝する鳥居、いわば神門のようなものであり、これを遙拝(ようはい)する場所であったことが、当社信仰のはじまりであったとされている。

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 右の江戸時代の版画に、かつて夫婦岩から東北約650mの沖合にあった興玉石が描かれている。夫婦岩の後方、2本の御幣が立てられている岩礁がそれで、垂仁天皇の御代、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の鎮座すべき地を求めて、二見浦に御船で入られたとき、猿田彦神がこの海上の岩礁に出現し、お出迎えをした霊跡とされている。

 興玉石の大きさは、東西216m、南北108m、高さ約7mの楕円形をした平たい水上岩であったという。この小さな島が、安政元年(1854)旧暦11月3・4日に発生した大地震「安政東海・東南海・南海地震」(推定M8.4)によって海底に沈下し、暗礁となった。現在は船からでなければ拝めないが、1960年のチリ地震による津波の際に一時姿を見せ、今も4月ごろの大潮のときにうっすらと暗礁を拝することができるという。

 興玉石に降臨された興玉神は、代々伊勢神宮の玉串大内人(たまぐしおおうちんど)という特別な職を任じられた宇治土公(うじのつちぎみ、「うじとこ」とも呼ぶ)氏の祖神とされる猿田彦命といわれている。

 天孫降臨神話に登場する導き(道案内)の神・猿田彦は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を日向の高千穂に先導したあと、天鈿女命(あめのうずめのみこと)に送られて伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴川の川上に天鈿女を伴って帰っていったとされている。
 その後、猿田彦が伊勢の阿射加(あざか、松阪市大阿坂町あたり)の海岸で漁をしていたとき、比良夫貝(ひらぶがい)に手をはさまれて海に沈み、溺れ死んだという話もある。

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 二見興玉神社の境内に、「天の岩屋」と呼ばれる岩窟がある。この岩窟には、往古より宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、食物の神で別称「お稲荷さん」ともいう)を祀った三宮神社が鎮座していたが、文禄年間(1592〜1596年)に外側の境内に遷祀されたとある。ようは、かつて岩窟には宇迦之御魂が祀られていたが、文禄年間に他所へ遷座されたことで、現在祀られている神さまはいないということだろう。

 天の岩屋が当社の祭神・宇迦之御魂にまつわる遺跡であることから、岩屋の横に宇迦之御魂ではなく、天鈿女の石像が置かれているのをいぶかしく思ったが、たしかに、岩戸隠れの伝説では、岩戸の前で熱狂的な踊りを披露し、当社の祭神・猿田彦の妻となった天鈿女命が、天の岩屋の祭神にもっともふさわしいと考えられたためだろう。

 猿田彦について、宗教学者・松前健らは『古事記』に「上は高天原(たかまがはら)を照らし、下は葦原中国(あしはらのなかつくに)を照らす神」とあり、『日本書紀』に「口尻(くちわき)明り耀(て)れり。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、照り輝くこと赤い酸醤(ほおずき)に似れり」と記されていることから、猿田彦は天照大神の遷座以前に、伊勢・志摩地方の海人族が祀っていた、原始的な太陽神であったとの解釈されている。

 夫婦岩から昇る朝日を猿田彦に例えれば、天の岩屋は 天鈿女との聖婚の場であり、男岩を猿田彦に、女岩を天鈿女に例えることもできるのではないだろうか。天鈿女命とその子孫は、猿田彦神の名から猿の一字をもらって猿女君(さるめのきみ)と名乗り、伊勢地方を本拠地とする猿女氏の遠祖となったという。
 これらの伝承からも、猿田彦と天鈿女は、伊勢地方と縁の深い神であることがうかがえる。

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2022年6月29日 撮影


2022年6月29日、中日新聞・朝刊。
夫婦岩から昇る朝日は、江戸時代の錦絵や
近代の絵葉書の定番構図であった。






(上)江戸時代の伊勢二見ヶ浦の夏至の日の出
(下)季節による二見ヶ浦の夫婦岩から拝する日の出の位置
 夫婦岩の中央から昇る朝日は6月の夏至を中心に
5・6・7の3カ月間見ることができる。
『神々の考古学』大和岩雄 大和書房より転載。






天の岩屋の内部。
岩にできた洞穴の前に小さな鳥居が置かれていた。





案内板。