磯部町上之郷にある伊雑宮。「上之郷の石神」は、伊雜宮の真北約350mの地点に鎮座している。


上之郷の石神の参道入り口。右の石標に「志摩の三大石神 上之郷石神」と記されている。
三大石神のあと2つは、志摩市阿児町の横山石神神社と鳥羽市相差町の神明神社の石神さんのことを指している。


静謐で神秘的な印象を受ける円型状の空間「上之郷の石神」。







 磯部町のある志摩国は、古来より神または天皇に贄(にえ)を納める「御食国(みけつくに)」であった。御食国とは、皇室や神事に必要な海産物を貢いだ国のことをいう。 平安時代前期に成立した『延喜式』によると、志摩国は10日ごとに「鮮鰒(なまのあわび)、さざえ、蒸鰒(むしあわび)」、節日ごとに「雑鮮の味物」の献上が定められていた。
 志摩地方は、7世紀後半から8世紀初めに伊勢国から分立して「一国一郡」の狭小な国として出発した(後の『延喜式』では答志郡、英虞郡の二郡となった)。この小さな志摩国が一つの国として独立できたのも「御食国」であったことによる。

 志摩国一ノ宮の伊雑宮(いざわのみや)も、やはり志摩一円の海女や漁師との関わりが深く、志摩市磯部町の歴史は、伊雑宮を中心に展開していった。
 的矢(まとや)湾の内湾、伊雑ノ浦(いぞうのうら)の奥に鎮座する伊雑宮は、10社ある内宮別宮の中で、荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ第4位の格式をもち、地元の人には「いぞうぐう」「いそべさん」と呼ばれ海の幸、山の幸の豊饒の神として信仰されてきた。
 現在でも、海女や漁師たちが海に潜るときには、伊雑宮のお守り「磯守(海幸木守)」を身につけて海に入るのが習わしとなっている。

 伊雑宮の創建年代は不明だが、鎌倉時代中期に編纂された『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』によると、およそ2000年前の第11代・垂仁天皇の御代、伊勢神宮鎮座の後に、倭姫命が神宮にお供えする御贄(みにえ)を求めて志摩国を巡幸したおり、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)に迎えられ、磯部の地を「御贄地(みにえどころ)」と定め、創建したと伝えられている。
 『倭姫命世紀』の記述から、中世から近世には伊雑宮の主祭神は伊佐波登美神とその妃神・玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)とされていたが、明治維新後に天照大神の御魂が主祭神と定められ、今日に至っている。

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 「上之郷(かみのごう)の石神」は、伊雜宮の真北約350mの地点にある丘陵地に鎮座している。伊雜宮から丘陵地に向かう細い道に入るとすぐに、「志摩の三大石神 上之郷の石神」と記された石標と白木の神明鳥居が見える。
 道路沿いの鳥居をくぐり、下り坂の参道を少し歩くと、まわりを注連縄で囲まれた円型の平地があり、なかにおよそ10体ほどの石がひっそりと佇んでいた。これらの石が自然に形成されたものか、人工的に配されたものかを判別することは難しいが、ここが古代の祭祀場であったことは、それぞれの岩に小さな紙垂(しで)を垂らした注連縄が巻かれていることからも明らかだろう。

 石神周辺の手入れはされているようで、石の前には鮮やかな色あいのサカキが手向けられ、果物や酒盃がそなえてある。自然石を配した日本庭園といってもよいような、不思議な趣を感じさせる場所となっていた。
 自然物崇拝から出現した石神信仰は、岩や石そのものを神の依り代として崇拝・信仰の対象とするものだが、上之郷の場合は「石神」ではなく、自然の岩石をそのまま利用、または人為的に組んで、神が降臨される「神域」を区画する「磐境(いわさか)」と呼ばれる聖域であろう。

 2015年に出版された植島啓司氏の『伊勢神宮とは何か』(集英社新書)には、「上之郷の石神」は「谷ノ神社」という名称で紹介されている。その折、氏が目にした光景は、現在とだいぶ異なったいたようだ。
 「谷ノ神社は神籬(ひもろぎ)の跡がかすかに認められるものの、もはや原形をとどめないほど荒廃している」と記されている。
 この文章から察すると、現在のように入り口に鳥居や参道が設けられ、岩場周辺が整備されたのは、ごく近年のことであるらしい。

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 伊勢神道研究の名著・筑紫申真の『アマテラスの誕生』(講談社学術文庫)に、伊雑宮の神体山に関する次のような記述がある。
 「皇大神宮の別宮の伊雑宮に近い山のなかにも、アマテラスが腰掛けてやすんだという霊石があり、付近の村びとがこの石にむかって雨乞いをしています。伊雑宮の神体山とみなされる青峰山のいただきは天跡山とよばれ、ヤマトヒメがアマテラスをまつったところといい、巨石があります」

 また、同著者『日本の神話』(ちくま学芸文庫)には、
 「青峰はいまでは仏教化されて、山のいただきに正福寺があり、漁民の崇敬の的になっている。けれども元来は、この山は伊雑宮の神体山であった過去があるらしいのである。
 山頂には倭姫がアマテラスを鎮め祭ったという巨石があり、天跡山とよばれている。中腹には一きわめだって巨大な岩があり、長者の岩とよばれている。その岩の下にある滝は野川(神路川の支流)の水源にあたり、その流域の村びとはひでりのときにはこの滝で雨乞いをする。また山麓にも巨岩があり、そのほとりは長者の屋敷とよばれ、ここから以前に土器がみいだされたということだ。長者の岩とか長者の屋敷とかいう名は、信仰の霊地にしばしばつけられる地名なのだ」
とある。

 この部分を読んで、即、「瀧原宮と山の神(潮石)・足神」で紹介した「山の神(潮石)」が頭に浮かんだ。
 瀧原宮は、伊雑宮とともに伊勢神宮の「遙宮(とおのみや)」とよばれる別宮で、「山の神」は、瀧原宮の神体山とされる「祝詞(のりと)山」を祀る遥拝所もしくは里宮的な存在であったと考えられている。

 青峰山(あおのみねさん、標高336m)は、伊雑宮の北東約3.5km、鳥羽市と志摩市の市境に位置している。低山ながらも伊勢湾、遠州灘、熊野灘から見通せるため、古くから沖合いを行く船乗りたちから「山アテ」とされ、海上守護の霊峰として漁業関係者の篤い信仰を集めてきたという。

 磯部町のある伊勢国南部は、古代の豪族・磯部氏によって開拓された地域とされている。「磯部」の地名も「伊雑」とともに古代から使用されている歴史のある地名で、外宮の禰宜職を世襲した度会(わたらい)氏も磯部氏の祖系であるという。

 上之郷の石神で、どのような祭祀が行われていたかは不明だが、神社の原始形態とされる磐境信仰となれば「上之郷の石神」は大和文化から生まれたものではないだろう。青峰山の「遥拝所もしくは里宮的な存在」として、神宮遷座以前からこの地に蟠踞した、磯部氏の祖先神を祀る祭場だったのではないかと推測する。

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2022年6月28日 撮影

磯部の御神田。
伊雑宮の神事として最も興味深いのは、
毎年6月24日に執行される「御田植祭」である。
日本三大御田植祭の一つとされ、
「磯部の御神田(おみた)」の名で
国の重要無形民俗文化財に指定されている。